花は折りたし梢は高し

とにかくいろいろうまくいかねーなってことを書いていこうと思います。

セックスレスが数年単位になると、もはやレスじゃなく定期的に営みがある方が異常だと感じてしまうことについて書いてみる

自分に子供を作らないという選択を持ち、それをする日がくるとは、少なくとも5年前までは、考えたこともなかった。

 

子供の頃からただぼんやりと、いつか彼氏ができて、いつか結婚をして、子供を産み育てるのだろうと思っていた。

(これって他の多くの人も共通だと思うけれど)

 

当時思ったような彼氏がいる学生生活のある未来は来なかったけれど、無事に(?)処女は卒業し、社会に出てからはいくつかの恋愛を経て、片膝をついた指輪片手のプロポーズをしてもらい、30までには結婚をし、今は駅近の持ち家で暮らしている。

 

当時はその上で、それが当たり前に土台としてある中で。

子供がいて、お母さんとして、どうやって暮らしていこう、と考えていた。

どういうお母さんになろうか。

そういう考えが常に頭にあった。

 

そんな我が家も気がつけばレスは軽く4年を経過。

一番最近のその一回も、その前は1年前とかだったのではなかろうか。

結婚してからの営みの回数なんておそらく両手に足りる。

 

ハイクラスホテルに泊まった結婚式の日も、新婚旅行のメッカの南の島で泊まったヴィラのスイートルームでも営みはなかった。

それどころかちゅーすらしてねーな。

かろうじて手をつないだかどうか

 

そんな我が家も結婚当初は行ってらっしゃいのちゅーだの、それなりに仲良しだったのだ。

手をつないで寝たり、お互いの腕の中で寝たりもしていた。

「セックスしなくてもこうしていれば十分だよね」と言い合っていた。

今だってベッドは別だが仲はいい方だと思う。

というか、今の方が精神的には仲良しではなかろうか。

 

昔持っていた、「匂いが嫌いじゃなければ遺伝子的に大丈夫」というよくわからない根拠の上、「この人が嫌いではない」と思って結婚した。

今も匂いは嫌いじゃない、けど別に好きでもない。

っていうか、子供も作らないのに遺伝子とか関係あったのかな。まあいいや。

 

そうだな、仲が良かったからダメだったのだろう。

良かったから異性から家族へととっととシフトチェンジしてしまった。

異性であり家族であるって、どうやるんだろうな。

二人の時間を大事にするだの、セクシーな格好をするだの、そこまでしないとダメなのか。

そんなの誰にも親にも教えてもらってない。

 

うちの親は本当に「お母さん」だった。多分?晩年まで営みがあった気配はある。

それはつまり、「お父さん」が「お母さん」を雌認識し続けていたから。

一度子供は?と迫る親に「うちはレスだから」と打ち明けた時の、予想以上の親のうろたえる姿に、「レスで悩んだことのない」女の姿を垣間見た。

 

うちの相方は私をかわいいかわいい言っている割には、可愛くて面倒見のいいお母さんとか、大きい猫くらいにしか思っていない。

そして、私がきっと「……する?」なんてネグリジェ(今時!)でも着たら一発で解決する気もないわけではない。

うちの相方の単純なところは愛らしく御し易いところでもあるのだ。

 

いやいやいやいや、そうじゃないだろう。

その解決っていうのも結構えぐい。

土壇場で逆マグロになった場合、冷静な頭でなぜ私が…という気持ちをねじ伏せてでも相方の僕チンを慰めなくちゃいけない覚悟とか。

一方、ハフハフしている相方に対して、どこまで自分の気持ちを盛り上げられるのか声を出せるのかとか。

まったく濡れそうもない気配の自分の深部に、どう僕チンを招き入れるのかとか。

ともあれなるべく短時間で済ませたい。

とかとか考えているうちにカーネルパニックを起こす私の脳。強制終了。

 

そうして先送りしてきた重要な問題。

夫婦には切り離せない「楽しい家族計画」

分かるけれど。セックスは頭でするものじゃないって。

でも頭で結婚した場合のセックスって、どうやって切り離すの?

 

お付き合いから数ヶ月でチェンジしてしまった。

さらにおぼろげな記憶を辿れば、うちの相方は当初、割と情熱的だった気もする。

会うと毎晩だった気がする。というか毎晩会ってたからかな。やりすぎたのかな。

なんというか割とアレな、サディスティックなプレイ。言葉責めとかな。お胸を窓ガラスに押し付けてバックからとか。なんだそれAVか。

それがどうだ、最終的には逆マグロである。

私に色気が足りなかったんだろうなあ。それだけじゃないだろうけども。

あれ、考えれば考えるほど私のせいかもしれない。

 

なんかで読み聞いたけど、一つのソフトクリームを分け合って食べられなくなったら離婚した方がいいそうだ。

考えてみれば、私の抵抗なんて「お金がもったいない」という理由が勝る程度のものだ。

(二つ買うのはお金がもったいないから、ひとつでいい)

だからうちは、離婚危機ではない。でも、ずっと離婚と子作りの話をしている。

 

なんのために結婚したのかなあ。

こんなに苦しい結婚生活を送るためだったのかなあ。

向こうはどうだか知らないけれど、少なくとも、私は「彼が世界で一番好き」という理由ではなかった。

適齢期に貰ってくれると言ってくれた彼に感謝をしているし、彼は今も、私に既婚者という身分を惜しみなく与えてくれている。

 

ああ、そうそう、私はお嫁さんになりたかった。

誰かの物になりたかった。どこかに属したいという意味で。

お父さんとお母さんが作った家ではなくて、自分が作った家を。

結婚当初から「よい夫」と「よい父」になってくれるよう、私は相方に期待を押し付けすぎていた。

「よい妻」と「いつかよい母」になるよう、私は何から何まで気負いしすぎていた。

数々の失恋を経て、私の前を過ぎ去っていった男たちの分も、私をいらないと言ったあの人たちの分も。

私は今度こそ間違えない。「いい家庭を作る」「今度こそちゃんとする」

 

私の病気で子供ができないかもしれないと分かった時の私の絶望によって、それは終焉を迎える。

かろうじて危ういバランスを保っていた、「あたり前に、子供のいる家庭」を目指す夫婦の均衡の崩壊。

バーンアウトした。

 

私はいいお母さんになりたかった。

誰かにとって。

自分の「旦那さん」や「子供」にとって。

かけがえのない一人になりたかった。

 

問題は、その「旦那さん」は必ずしも相方である必要はないと自分が認識しているにも関わらず、結婚をしたことだ。

「この人にとって良い妻になりたい」と思いきれていなかったことだ。

ただ私と結婚したいと言ってくれていただけで、結婚をして、頑張ってよ!と私の理想を押し付けた。

相方からしたっていい迷惑だ。

 

それでも「俺は離婚したくない。」と常に言い続けている。こんなに私がボロボロにしてもなお。

そして相方は私を縛り続ける。私を「お母さん」にすることも「女」に戻すこともできず、全ての問題を私に押し付けて。

 

結局なんとか子供は作れると分かり、「子作りするなら1日でも早く」と私を急かした医者の言葉に焦りながらも、結局何年も悩んで悩んで。

私の生き方、私の望むもの、どこかで確かに何かを間違えたこと、切り離して新しく獲得するためにもがきあがいた時間。

何度も強引にセックスしようとした。お胸にほやほや精子の試験管を入れて病院へ運ぶアレもした。他の人とセックスや子供をとも思った。

体の中に別の生命がある神秘、自分で命を育む充実感、待って望んで会える小さな命。

そういうものを味わってみたかった。

 

子供がいる家庭を欲しくないわけではない。

病気が分かった時は、私は仮に死んでもいいから、命よりも子供を産み育てたいと泣いたのだ。

今でこそ落ち着いたが、過去には妊婦さんを見たり、友達や芸能人の妊娠が分かるたびに素直に喜べない自分もいた。

 

他の人から見たら馬鹿馬鹿しいのだろう。

どうしてまだ取れる解決法があるのに、悩みを晴らす一歩を踏み出さないのか。

ある人はどれだけ子供がいる人生が素晴らしいかを説くのかもしれないし

ある人は自分たちが脈々と受け継いできた遺伝子を絶やすことに対し、親不孝と非難するのかもしれない。

ある人は今の私たちの関係を見て、アロマやお酒の力を借りてと言うのかもしれない。

(全部実際に言われた経験がある)

 

でもそれは、どれも何も解決していないのだ。私にとって。私たちにとって。

 

私たちは無数に話し合いにならない話し合いをした結果、今はただ未来を考えず、今を楽しく頑張って生きて、今は二人で暮らそうと思っている。

今はただ、自分たちのためにできることを。そういう贅沢な時間を過ごして、大事にしようと。

私の年齢を考えればもう、何を選ぶにしても何もかも遅すぎるのも分かっている。

ただ、こうするしかできなかったよね、いっぱい時間をかけてきたけど、結局結論出なかったものね、と自分たちに言い聞かせるだけで、少しだけ私たちは楽になるのだ。

 

世間の「子供が欲しいから結婚したい」という声に思う。

その主張自体はとてもよくわかる。私もそうだった。

子供は宝、そして自分の遺伝子を残し育むという生き物としての最低限の役割を果たせる。

それをしなきゃ一人前じゃない、みたいな風潮も分からなくもない。

 

それに途中でつまずいた時のビジョンの持ち方。

妻であり母であること、夫であり父であること。

三組は一組は離婚する時代、結婚自体がまずとても難しい。子育ては自分の命を分け与え一生をかけるほどの一大事業。

そういう途方もなく大変なものを、若さや好きだ惚れたの勢いでバーンとするのではなく、感情だけではない考えと熟慮を経て選び取る大人の選択である場合。

そんな恐ろしいもの、根拠や後ろ盾がどれだけあっても不安しかないのではないかと。

 

あの人へ前に私が言った、あの言葉にだけは、誠実でいたいと思う。

 

正しい正しくないではなく、そこにただ事実があるだけだ。

変えられるものも、選べるものも、未来だけ。

それもひどく不自由なものではあるけれど。