花は折りたし梢は高し

とにかくいろいろうまくいかねーなってことを書いていこうと思います。

女が過去の話を持ち出してネチネチ責める心理について書いてみる

最近人間関係の衝突についてよく話をきく機会がある。

 

私自身も、よく怒り続けているので良く分かる。

よく女性にありがちな、ネチネチ前のことを延々と言い続けるアレである。

 

私は女なので、100%女寄りの意見となることをお許しいただきたい。

 

脳の仕組みの違いなんだろうか。

男はさぞ「いつまで言ってんだよ、クソが」と舌打ちしたくなることだろう。

 

しかしながら、怒ることはとても体力がいる。

怒るだけの熱意も必要になる。

その表面上の言葉だけを捉えていては、いつまで経っても枝葉から幹へはたどり着けない。

 

女だって、ああ、もういっかなあって思うことも多々ある。

だけど、そう言っちゃったらそこまでだよなあ、と。

 

怒る以外の自己主張の方法だってあるだろう、と他人事なら私も言う。

 

イラっとしたら、黙り込んでしばらく貝のように閉じこもるか、気がすむまで距離を置けばいい。

ただ、もともと飲み込めるほどの、キャパシティに収まるような怒りだけで済んでいるなら、ネチネチは言われないのだ。

あまりにも大きな痛み。もしくはささいな痛みの積み重ね。

飲み込んだつもりの怒りが逆流し、んんん、どうしても腹がおさまらん!となっているのだ。

そうなるとアレだ。ドカンと爆発をして、( д)、ペッと吐き出す。

 

そのあと情熱自体がスッと冷めてしまう。もうどうでもいいわ。となる。

こうなってしまうと自分でもどうしようもない。

「この人はダメだ」と見切りをつける。待っているのは離別のみ。

 

離別を切り出した女性に言うのだ。「え?なんでいきなり?」

よく聞くよねーコレ。

 

家族だから友人だから恋人だからと甘えていい範囲とそうでない範囲がある。

傷つけたことに対して「そんなことで傷つくなよ」と言うほど相手に寛容を求める人ならば、間違っても逆ギレなどしない菩薩のような精神の持ち主なのでしょう。

アハハ。

 

仕事のクライアントかなんかだと思えばいい。

例えば一度の請求書のミスを、今までの付き合いに免じて許してもらえたからといって、二度三度は許してもらえるかといったらどうだろう。

今まで許してくれてたじゃん。大した間違いじゃないじゃん。

仕方ないじゃん確認する時間なかったんだから。

分かってるならいちいち指摘すんなよ。

 

そんなのはいつまでも通用しない。

 

相手はいい加減にしろ!あなたの会社は信頼できない、取引停止だ!とご立腹。

と、怒ってくれているうちはまだいいのだけどもね。謝る余地があるから。

ただ粛々と、取り付く島もなく取引が打ち切られる方がキツイ。

 

もしくはお気に入りのお店や企業から、とんでもない接客や対応をされたとしよう。

気に入っていた分、悲しくて悔しくて、思わずクレームをつけた。

その時ろくに聞かずいい加減にとあしらわれて、そのクレームが流されたらどう思うだろう。

 

「いや、聞けって。まず聞けって。どんだけひどかったか……」

(話を遮って)「あーハイハイ、サーセン。っていうか、いつまで言ってんすか。」

「は?本当分かってる?」

「や、悪かったのは分かってるんで。もういいでしょ?謝ってるんだから。」

ちょ、責任者呼べや、となるか、もうええわ…となるかのどちらかだろう。

 

どうにかしてほしい、と。分かってよ、と。

今プンプンしているのは、実際はそこまで怒っていない。

いきなり?と言われないように、奮い立たせて怒っている。

そこにあるのは愛である。

 

結局ずいぶんと昔の出来事をほじくりかえして、ネチネチ言いたくもないのに言っているのは

思い出すだけでキツイのに起こり続けているのは、結局不満や不信が収まってないからだ。

 

相手からすれば、うわ、なんか急に怒り出した!となり。

何で今更?何を突然?何をきっかけに?

「許してくれてたんじゃなかったのか」「受け入れてくれたんじゃないのか」という辺りが本音だろうと思う。

 

世の男性陣に言いたい。

確かに女性の言い方は論理的じゃないかもしれない。

ただ、男性こそ論理的になるべきなのだ。

あなたのやってきたことが「ふわっとしたなにか」で許されるわけじゃないんだと。

論理的に謝罪すべきなのだということに気がついていただきたい。

コレコレこういう事情があって、コレコレこうなった。

でも今はコレコレこういう風にして再発防止に努める。と。企業の謝罪会見のように。

心から納得してもらえるように。

 

どんな理由であれ、あなたが深く傷つけたその出来事は、あなた自身にとっては通過点であって、終わったこととなっていたとしても。

実際許されているわけでも、受け入れているわけでもないのだ。

終わっていないですよ。溜飲を下げられてはいないですよ。流せてもいないですよ。

ただ結論や判断を保留しただけですよ。

あなたへの大いなる愛をもって。力づくで。痛みを伴いながら、心に収めたのだ。

 

直視を避けて逃げ続けられる限り、その傷は癒えることなく膿んでいく。

 

すっかり終わったことのようになっている、忘れきった様子を見て、下手すると同じことを繰り返す様子を見て。

いずれ愛だけでは支えきれず、爆発する。

 

その本質は怒りではない。ただただ、悲しいのだ。

愛を持って棚上げしたその痛みすら、気付かれていないという事実に。

当たり前と思われているその扱いに。

 

高まったフラストレーションの正体とは、結局のところ、信じてたものが裏切られたと感じているからだ。

共感が得られると思っていた相手から、自分の、当たり前と思っていた価値観を否定されたような気がするからだ。

 

そしてそれでもなお怒り続けている理由は、これ以上相手に失望したくないからだ。

分かってくれる人だと信じたいのだ。

 

そこから逃げ続けたところで、許される日はこないのだから。

ただ失望されるだけなのだから。

怒られているうちに、相手の気がすむまで向き合っていくしかない。

やっちまったもんは仕方ない。

それがうっとおしいめんどくさいと思うなら、向き合うことを放棄するならば、その関係性ごと捨ててしまえばいい。

居心地の良いその場所はキープしながらも、めんどくさいことには向き合わない。

そういういいとこ取りをしようとしないで、まるっと放棄して逃げて、相手ごと失うという選択権もある。

 

「もうお前なんていいわ」と放棄されたら方は辛いだろう、泣くだろう。

けれど、心のどこかで理解もする。

そんなギリギリの部分をかけて自己主張をするリスクが分かってもいる。

嫌われるかもしれない。捨てられるかもしれない。こんなめんどくさいこと。

 

そういうリスクが分かっていても、ギリギリの所でネチネチを続けるのは。

「そんなに信頼をしてくれていたのに裏切ってしまって」と、「俺が悪かった、なんてことしたんだ」と。

「全然分かってなかった、これからは大事にするから、もう一度信頼してほしい」と。

いつか共感してもらえるんじゃないかという儚い望みにすがって、この期に及んでもまだ信じているから。

そして、もし自分ごと放棄されたとすれば「そんな程度の相手を自分が大きな痛みを伴って、愛していたこと」が情けなくて泣くのだ。

自分の見極めの甘さを、自分の魅力のなさを責めるのだ。

 

結局怒らせてしまったら、共感して謝り倒して二度としないと信じてもらえるまで何度も誓ったり謙虚な姿勢を示して

がむしゃらに取り戻すしかないのだ。失った信頼を。

そのプロセスを経て、「もういいよ」と相手が音を上げるまで、何度も何度も。

 

間違っても「いつまで言ってんだよ」「俺にだって都合があったんだよ」と逆ギレ的な自己正当化をしてはいけない。

気持ちは分かる。とかく女はめんどくさい生き物だ、と私自身も思う。

しかし相手は大事なあなたを信頼して取引を続け、ささいなミスも笑って見逃してくれていたクライアントだと思っていただきたい。

裏切りたくない、取り戻したいという切実な気持ちと緊張感を持って、信頼を取り戻しに行っていただきたい。

 

「もうどうだっていいよ」と見捨てられていたら、それはかなり難しいことだが。

怒っていてくれていればいるほど、思ったほど、手こずらないはずだ。

むしろ、見直してもらえるかもしれない。「やっぱり信頼できる人だ」と思うかもしれない。

 

お気に入りのお店や企業にガッカリしながらクレームをつけた時、予想以上の共感と対応をしてもらったら、更にその企業を好きになるだろう。

好きでよかった、やっぱりここはいい!と好感度が上がるのと同じく。