花は折りたし梢は高し

とにかくいろいろうまくいかねーなってことを書いていこうと思います。

考えることは避けるべきことなのだろうか考えすぎていることを書いてみる

多面性だとか、極端に言えば解離性だとか

言葉ではあっさりしたものだけども。

そもそも誰もが人に見せてる部分はそれなりに使い分けるのは当たり前であって

故意に隠したりアピールしたりなんていうのは日常の出来事だと思う。

 

全部をさらけ出すことが美徳だなんてことは全くないと思うし

隠すことが息苦しく無理をしていることなんてこともない。

見せたくないその裏を見られることは苦痛でしかない。

本当の自分を見せてくれと言われたところで、実際はそんなものどこにもいないのだ。

 

さらけ出せる安寧のようなものは確かに存在するとは思う。

隠したり使い分けたりすることは、実際心にとっては負担であり労力でもあるのだ。

それらをつまびらかにすることは、怖いことでもあり、一種の快感でもある。

私は他の人のそんな秘め事を、秘密の共有は信頼の証である、という大義名分と共に受け取る。

 

一緒に考えようか、生きづらさの根本を。

そのことで、あなたは楽にできるのかな。

私以外の誰かにそれを明かす日までは、と思いながら心の引き出しにしまう。

 

きっと渡した人は忘れてしまっているのだろう数々のものを、預かっていることに気がつく。

持ち主は元気だろうか。

私は上手に圧縮しているから、あなたは解凍キーを持っておくといい。

一生使うことがなかったとしても。

あるいは、今更だとしても。

 

あなたはこういう人だよね、と決めつけられることで

妙にすとんと心に落ちて、なんだかホッとできるときもあれば

はあ?と反発心しか生まれないときも、ままある。

 

人っていうのは心理テストだとか占いだとかにどこかワクワクしたり注目するってことは、

やっぱり自分のことを自分ではよくわかっていないのだろう。

そのくせ「当たってる」だの、「なんか違う」だのと決めつける。

ということは、欲しい答えがあるのだ。

とはいえ、きっと誰しもがほとんどの人に見せることがないと自覚をしている自分というものはいる。

この人にだけは見せられるという、露出の少ない部分。そういった確かで不確かな何か。

パーソナリティのようなもの。自身のコアな部分。

それらひとつひとつに個々の人格があるのだとしたら、人は本当にとてつもない量のパーソナリティを持っていることになる。

それこそスプリットしているものではなくて、スペクトラムなのか。

 

10年近く物理的に一番側にいる他人であり家族であるあの人は、私にそれほど興味がない。

んなことないと否定するだろうけど、それを一番私が知っているのだから、仕方ない。

他者に多くを求めない代わりに、失望することもない。

これ以上求められても困るし、うっとおしいし、だからこそなんとかやって来れているのだろう。

自分にも何も課していないから、私に何かを課すこともしない。

思い込みのバイアスはすごいけれど、根本的には人を悪く言わないところは敬愛している。

飾らないし、どう思われるかを気にしないから多面性もない。

私に全てを見せている、ように見せている。

これがあざとさのようなスキルであるなら素晴らしい。

あなたでいいよ、そのままでいいよ、という全力の肯定をもらっていてもなお、一方で時折それがひどく愛しくも悲しく、虚無感が漂う。

 

私とは違う人間とつくづく感じる。

その穴みたいなもののは、私の救いであり、苦しみだ。

人は変わるのだと思う。

正確には、変わらない部分と、変わる部分がある。

私がそう変えてしまったのだとも。

 

その前にしゃがみこんでは、私は嘆息している。

青い空は途方もなく広がっているし、それを憂いていても、しばらくすれば月が頭上にのぼることも知っている。

考えすぎだ、と言われたところでそうしようもない。

 

おそらく無数に言われてきているし、わかりきっているから、あまり人に見せないようにするのだ。

自分の中身。考えていること。

多面的を使い分けて今日も人はおのおのの心を黙殺して笑う。そうやってみんな生きている。

私たちはいきにくさを抱えた考える生き物たちであり、だけども、だからこそ、他人の不器用さを抱きしめるように愛することもできると信じている。

 

「考えすぎだよ、難しいことじゃないくて、シンプルなことなんだ。」

って、言われなくても分かるしとっくに知っている。知っていてできないこともある。

ほっほーう、なるほどね、知らなかったよ!

これからは、考えないようにしてみるね!!

 

なんてなると思うか?

なるはずねー。

あれこれ考えて頭の中で出来上がった設計図が「それ」なんだから。

 

その設計図、違うよっていうなら、こうだよってシンプルな設計図をちゃんと確認しないと納得できない。

至るプロセスを、構成しているエレメントを見て、見落としている大切な何かはないか、納得したい。

見なきゃできない。

 

だって「考えすぎだよ」なんて浅はかなこと言う人の設計図だよ?

自分のよりも綿密だとは思えなくない?

そもそも、その考えるプロセスってのも大事な訳だよ。

ここに答えがありますけど?

ってそういうことじゃない。

答えを決めるのは各々の心であり、価値観なのだ。

 

そうやって、どっかで腹落ちするまでは考えてしまう。

しないときも多いから、そう言う時は諦めるけれど、諦められるまでは考えてしまう。

 

考えすぎだよって言葉は、極論、死なないのに何で悩んでるの?いいじゃんって言う感じ。

いやいや、投げっぱなしすぎるでしょう。

全部が全部、そう言う問題じゃないでしょう。

死なないためだけに生きてるわけじゃないでしょう。

誰かを愛したり愛されたりして生きたいって、普通のことでしょう。

突き詰めてみればごくプリミティブな感情であって。

 

でもまあ、「命までは取られるわけでなし」という言葉に救われたことがある。

そして私も「それは考えすぎだよ」と誰かに言ったこともある。

矛盾してるなあ。

 

そもそもこの矛盾というのはこうやってインターネッツの片隅で感情を吐露している不毛な人間であることを、

良しとしている訳じゃないけどそれが自分でもあって、開き直ってる訳でもない葛藤はあるそういうものであって。

そんなの他人に指摘されたくもないから、私も笑う。

 

どうしようもないことって分かってるのに考えちゃうよね。分かるよって。

それがあなたよねって。

そういうあなたが愛おしいんだよって。

苦笑いしながら言ってくれたあの人は、心の中のいつもの席にもういないのだけども。

妙にすとんと心に落ちて、なんだかホッとして、救われた感覚に瞑目したあの時に戻れるわけではないし、

それを憂いているだけではないのだけども、それでもこんな日はあなたがいてくれたらと願う。

こういう時、胸が締め付けられる私の痛みはいつまで続くのだろう。

 

今日も私は空を見上げる。平成最後の夏も終わる。

今年は突き抜けて暑くて、考える気にもならないところが悪くなかったけども。

いい加減な自分を、そろそろなんとか考えなくてはいけない。