花は折りたし梢は高し

とにかくいろいろうまくいかねーなってことを書いていこうと思います。

誰かと生きるって車に一緒に乗るようなものなのかなと思うことを書いてみる

これはよく言われることだが、車の運転にはそのドライバーの性格がよくあらわれると、確かに思う。

 

私は公私問わず男性の助手席が多いわけですが

(同行者が女性の場合は大抵が運転手になるので)

なるほど、慎重だったりせっかちだったり。

あとは、正確性や優しさや強引さ。

ブレーキの早さとか、カーブの曲がり方とか

MT車なら低速ギアをどこまでひっぱるかとか。

 

別に一発で駐車できるのがいいとか、そういうのは意識にないけれど。

なんだかんだと結果的に

ドラテク。フゥーッ↑

と、感じる男性はいる。

 

そういう人はえっちも上手い気がする。

あと、クラッチやらをガンガン踏む人はえっちも乱暴な気がする。

 

車も女性も所詮暴れ馬みたいなものだから、まぁどう乗りこなすかという点で共通なのでしょうか

車コロコロ変える人って彼女もって聞いたことあるような、ないような。

 

主導権がドライバーにあるようでいて、案外と乗せられてるというか、乗ってる時は車のポテンシャル頼みだったり。

でもそのポテンシャルをどう活かすかとかはドライバーの腕や意識次第で。

車を独りよがりにただの乗り物と見るか、車と過ごす時間を楽しむものと見るか。

 

そういう空気やムードの作り方も似たような部分がある。

おや、似てるなやっぱり。

 

そして、運転もせっくすも、メリハリが大事だと思う。

メリハリ。キビキビしたり、ゆったりしたり。

余裕があったりなかったり。

メリメリだけや、ハリハリだけじゃすぐお腹いっぱいになってしまうか飽きてしまう。

 

と、そんなことひっくるめても、私はあの人の助手席がすきだった。

あの人はそういうメリハリにとても長けていて、私はそれにいつも惚れ惚れしていた。

 

車の中、お互いに前を向いているからか、私たちはとにかくよく話をした気がする。

 

大事な話もそうでもない話も、思い出せば車の中ではたくさんの言葉を交わした。

ちらっちらっと盗み見るあの人の横顔、その視線に気づいて口角を上げる表情になんだか胸がキュンとして、ニヤけながら胸に抱いたカバンをぎゅっとして、正面に視線を戻す。

そして鼻歌に合わせて左右に揺れながら思う。

 

このままずっと道が続けばいいのに。

 

多分あの人も、そう思ってくれていたのではなかろうか。

 

焦燥。

もう帰らなくちゃ。

 

運転中のよそ行き顔に、少し距離を感じてまた視線を向けると、あの人は真顔のまま左手を私の右手に重ねる。

 

って、MT車なのに大丈夫?

いや、器用な人は上手いことなんとかするもので。

シフトを変える時だけ手を離して、また私の手のひらに戻ってくる。

おかえり、と私はその度につぶやく。

 

クラッチを踏んでギアを変えるその感じが、丁寧でとてもすき。

空気の動きや一連の仕草も、まるで歯ブラシに歯磨き粉でもつけるかのように慣れていて自然。

見せつけるような押し付けがましさなくて、手際が良くて小気味よくて、純粋にすごいなあと思う。

 

でも、ぬくもりが一瞬離れる寂しさはある。

そうか、AT車だったら、ずっと繋いでいられたんだなあ。

 

しばらくすると、私の手をそっとシフトに添えて、手のひらに包んだそのまま、軽く押してギアを変える。

なるほど、これなら手は離れない。

 

私の感情の揺れに気づいたのだろうか。

あるいは。

 

うむ、と満足げに頷きつつも、どこか照れている私に、あの人は少し眉をあげる。

 

そんな時間のことを思い返すと、今も私はニヤニヤと切なくなる。

 

稀に、私が運転をし、あの人を助手席に乗せることもあった。

走り慣れない道。私は手を繋ぐ余裕どころか、運転自体余裕なんてなくて、いつも前傾姿勢になっている様子に、目を細めながら、あの人は楽しげにしている。

きっとあの人はあの人なりの何かを感じていたのかな。

 

あーだこーだと運転に口を出すことなく(助手席で文句を言うのはご法度ですぞ)

さりげなくアシストしてくれるところも良かった。

 

あの人は本当に優しい人だった。

私の良くないところに対して、諭すことがとても上手だし、褒めて伸ばしてくれる人だった。

だから私はいつものびのびとしていられたんだなあ、と今だから分かる。

 

一つの乗り物に二人で乗っている、あの小さい空間は、心地よい液体に満たされているようだった。

どこ行こっかもなに食べよっかもなにも決まらなくても、それでもただ幸せだった。

結局全部あの人がなんとかしてくれる。私はいつもそれに甘えていた。

のを、情けなくも思う。

 

たまに「分かってよ!」とお互いで言い争うような時も、私の話をきちんと聞いて、考えてくれていた。その上で自分の気持ちを、思慮深く話してくれた。

それが結局迎合できたかどうかは別として。

 

ああやって一緒に時間を過ごしていく、その延長がつまり、多分誰かと生きることそのものだと思う。

 

私たちはそういう意味では、同じ車に乗ることができていたのでしょうか。

そこにあるものは幸せと相反する絶望だったのかな。

アンビバレンスというか、どちらかといえば諸刃の剣。

あなたは私の強みの源であり、最大の弱みでもあった。

 

バイクに乗りながら、私はそんなことを考えている。

バイクは本当に素敵な乗り物で、1人でも孤独感はない。

ギアを蹴り上げて、速度が安定したところでクラッチから手を離し、BGMに合わせて相棒のタンクを指で弾く。

湿気を含んだ夏の匂い。

 

あの時私たちは降って湧いたような何かにすがるのではなくて、手繰り寄せ続けていた。

手放してしまったら、もう掴めないことを知っていた。

らしくもなく不慣れなことに試行錯誤をして、とにかく頑張っていた。

その力が拮抗して前にも後ろにも勧めなかったり、結局どこにもいけなかったりするのだけど。

どっちかがもっと強引か、あるいはこんなに力まなければ、違ったのだと思うけども。

 

せめて、その部分だけは誇ってもいいのではないでしょうか。

結果とかだけじゃなくて。

 

誰かを愛したり、何かを紡ぐことになったとしても、あなたや、あなたの空気がほんとに大好きで、居心地が良かった。

これからも私たちは生きていく。

 

同じ車には乗れなかったとしても、あなたがくれたあの左手は本物だったと今も思う。