花は折りたし梢は高し

とにかくいろいろうまくいかねーなってことを書いていこうと思います。

嘘の上に成り立つ真実なんてあるのかなと思うことについて書いてみる

私は嘘をつくのが苦手だ。

と、この言葉自体が嘘なのかもしれない。

 

容易くついてることも多いのだ。

割と上手かもしれない。

とはいえ、自分が嘘をついた時は、シラを切りとおす時はつらい。

問い詰められている途中、この言い方は不自然かな、とか、

ああ言ったらこう、とか、考えているだけでみずおちのあたりがひんやりとするのと戦わなければいけない。

 

そう、苦手というのは自分に対して心理的に、という意味であって、そんな自分を許せるかどうかであって。

色々な言い訳を自分にして、うん、よしって自分が納得してついた嘘は

場を円滑にしたり、自分を誰かを守ったり、必要なものだったのだとしても

そのうちそれすらも真実がなんなのかはもはや分からなくなってくるから、うんざりする。

 

そうすると、本当の自分のやりたいことは?とか、そういう本質的なものを見失うのだ。

結局私は何のために息をし命を食べて生きてるんだろうとか極端なことを思うようになる。

 

嘘は悪いことだ、とかそういうことが言いたいんじゃなくて。

必要悪だ。それも微妙にちがくて。

なんていうか、しんどいことなのだ。持ち続けることが。

自分がつらくなくても、相手が辛い時もある。

 

楽になりたくてカミングアウトする人たちもたくさんいる。

結局誰かに許されたいのだろう。

 

知らない方がいい真実。知りたくない事実。

心は見えないようにできているから。自分にも見えないけど。

 

 

 

 

 

まあ、とかく

疑心暗鬼はつらい

 

本当は信じたい

だけどそれで自分が信じられているなら、もやもやしない

どこかに信じるための落としどころがある

疑うだけの根拠もある

 

その真実を突き詰めることに意味があるのか、とむしろそれを自問自答する。

 

難しいなあ人を自分を信じ続けることは難しいなあ。

どうしたらいいのかなあ。

100パーセントじゃなくていいから、60パーセントくらいは信じたいなあ。

 

真実を突き詰めるための意味は

些細なものの結晶が、小さなひとつの事象となり、そのものを構成している。

その小さな事象ひとつひとつは、大きなものの分身であって

そのひとつひとつ、そのもの自体を信じられるかどうかに繋がってくるから。

信じたいのだ私をあなたを。

 

多分私も、多分向こうも

分かってるそれは分かってる。

 

真実よりも、大切なものだってきっとあるのだ。

それをきちんと納得できれば、そのもの自体がどんな内容でも、きっと大したことじゃない。

多分大したことじゃない。納得できていれば。

 

だけど納得させる、その術がないから、あるいはその手間や苦労が途方もないから

一般的にとても納得できるようなものじゃなくて、大変なことだから。

そういった理由で人は嘘をつくのだろう。

何かを守るための、それは自分であったり相手であったりする、優しい嘘なのだろう。

それも分かってる。

 

信じることってそれほど重要だろうかと振り返れば。

そもそも私はいつも、誰彼構わず、違うと分かっていてもつい信じたいものを信じてしまう。

次こそは、と期待を持ってしまう。もちろんその期待を裏切られることは多いけれど。

 

信じること自体を諦めたこともある。そうするととても楽にはなる。

けれどその人自体「信じたい人」ではなくなるので、単にどうでもよくもなるだけだ。

 

思い入れがあるほど、心をゆだねたくなるほど

その人を信じたいのだ。

信じられることの安定度は、底知れぬ力をくれる。

強くも優しくもなれる。

その分まさに、ハイリスクハイリターン。

 

覆水盆に返らず

いつの時代もどんな時も繰り返されてきた信頼への裏切り

それこそがやっぱり悪だと思う。それは必要悪なのかどうかは分からない。

 

「ずっと一緒だよ」「ずっと好きだよ」

なんて可愛い嘘じゃない。ロマンだよ。

一生の愛を誓ったカップルですら、3組に1組は破局するのだから

それでもいいのだろう、その時は嘘じゃなかったのだろうし。

それ自体はちっとも悪ではないと思う。

むしろ色々なものを失いながらも、流されずにもがいて勝ち取って得た結果だとすら思う。

 

両親の喧嘩に付き合うたびに「めんどくせーな別れるならとっとと早く別れねーかな」と思っていた。

だけどあの人たちはきっと「別れない」ために喧嘩してたんだろうと、今でこそ思う。

 

離婚っていうのはあれくらいガツガツした何かを乗り越えて、勇気ある決断をしたのだろう。

だって、しない方が基本楽だもん。

誰だって生活を変えたり、誰かに何かを思われることなく、できるなら穏やかに現状維持でいたいと思うのだろうし。

 

いつか裏切る可能性のある今の展望と、そのちっぽけな覚悟に基づく安定。

そんな残酷なものを強制的に求めるその結婚という制度自体が受け入れられなかった。

そんなものがあるから、努力しなくなるんじゃないの?

 

とはいえ私も小市民。

もちろん離別を前提にしたものではないけれど、一生を誰にも何にも、明確に誓わないという

小さい抵抗して苗字を変えた。

 

だから許されるとかではないし、誰も傷つけてないとかそんなことは全くないし

迷惑もかけて裏切ってるのだろうとは思うけれども

私は自分に嘘はついてないとは思っている。

 

今まで信じられるかどうかというより、見ないことにしてきた。

その積み重ねは「信じられない」を増幅させている。

きっと相手はどうして信じられないのかさえ、わからないんじゃないかと思う。

何をしたって認められず、信じてもらえないって思うのではないかと。

 

どうやったら手放しに信じられるのかなあ。

私だって信じたいのに。でも多分、それは真実じゃない。

 

いっそ嘘でしたって簡単に認めて謝ってくれて、これからはもう嘘つかないって

信じられるように再構築できたらいい。

それを私はもう色々な人に何度もそれをやってきた。

問題は、「これからはもう嘘つかない」って言葉自体が嘘になってるってことだけど。

 

私はあなたを、その度にあなたはあなたを、許してきたのだ。

守るべき何かを真実と天秤にかけて。

 

私は、反応を見た途端に、ああ嘘だったんだなってなんとなく分かって。

嘘つかれてるって勘違いなんだとしたら。

いつもだったら。

 

まあ、それくらいはね、分かるんだ。悲しいけれども。

 

今までもこうして嘘をさらっとついてきたんだろうね。

上手にやってきたんだろうね。

他の人にもそうやって嘘ついてるのかな。

そうやって安心させてるのかな。

 

分かっても。私はそれでも黙ってたのだから。

きっとそれは同じくらいの罪なのだろうと思う。

 

あなたは自分を許せばいい。

あなたは私に許されるよう、また嘘を重ねればいい。

 

真実なんて残酷なばかりで。

そんなも嘘の上にしか、きっと私たちは存在できない。

そうやって大きな嘘のようなもので包まれた何かで、私たちは成り立っているのだから。

 

そういう現状を打破したくても、結局そんないつかはこないのだろうけれど

なんとなくそれが初めから分かっていても、それを信じようとしている時点で

嘘をつかせるのを分かっていて。気持ちを言葉で欲しいとねだって。

私が本当は一番の嘘つきなのだ。

  

そう、つまり私たちのつながり自体、嘘。だ。

 

そういう私は一体何になれるのだろう。