花は折りたし梢は高し

とにかくいろいろうまくいかねーなってことを書いていこうと思います。

言葉は落ちてくるものだ、恋と心は落ちるものだ、と思うことについて書いてみる

嬉しかったはずの言葉

私を勇気付けたものたち

 

心まで落ちてこない。

引っかかっている入り口のあたりを、じっと見上げている。

 

今の私はまるで両面テープのようだ、と思う。

つるんとした剥離紙と、べたっとした粘着面とがくっついているような。

どちらも私。どちらも表。

 

いつか、ぺろんと剥がれるのだろうか。

そうしたら、私は二人になるのだろうか、それとも何かが削ぎ落ちるとか。

なんて考えている。

 

ライブハウスに行った。

見ていても、どこか冷静になりながら、たまに携帯が気になりながら。

一人でロッカーに寄っかかって聞いていたり。

ソファにいる仲間のとこでおしゃべりしたり。

ぴょんぴょんノリに行って、疲れたらまったり烏龍茶飲んだり。

 

本当に誰もいなくて、一人で行くと逆にあんまり動かなくなるのに。

空間の中に気心の知れた人がいるというだけで、自由に楽しめる。

 

わーっと突っ込んでいって、疲れるまで暴れたら、わーっと帰ってくる。

帰る場所があるから、楽しく出かけられるのだ。

あれだ、リードに繋がれた犬みたいに。

 

あと、ワイワイ動いていることを、みんなもなんだか喜んでくれている気がする。

確かに実際、友達がワイワイしているのを見るのは私も楽しい。

スノボも、バーベキューも、旅行も、おしゃべりも、だからみんなで遊ぶのは楽しい。

ただし気心の知れた人に限る。

 

私は独身の時から、どうしても、何をするにもいつも

ものすごく端的に言えば、何かするたび「これはお母さん怒るかな」的な意識があった。

子供の頃から宿題が終わるまで遊んじゃダメ、と言われていたから

うちの家の庭で友達が遊んでいても、一人で宿題をしていた。

それを変だとは思わなかった。

 

完全に親の呪縛だなあ。

大人になれば割と当たり前のことでも、「悪いこと」をするのは、どこか罪悪感を抱えていた。

 

例えば初めてのお化粧をした時。

例えば初めて異性と手を繋いだ時。

例えばホテルに出入りする時。

例えば彼氏の家に泊まる時。

例えば黙って遠出をする時。

例えば大きな買い物をする時。

 

これがバレたら、お母さんになんて思われるかなあ、なんて常に一瞬考える。

それでやめるわけではないけれど、なんとなく嫌な気持ちになる。

 

いい歳の大人になってからも、デコラティブにあれこれ言い訳をこれでもかと盛り込んで親に送った

「今日泊まって帰ります」のメールに返信がなかったり、返信がそっけなかったりするともう

心配で心配で気になって、結局途中で帰ったりもしていた。

家の外灯が点いているとホッとした。

(怒っていると外灯が消えているのだ。帰ってこないでいい、という無言のアピール)

 

その、自分の中の罪悪感と戦いながらだと、楽しく遊べないのだ。

 

ふとそんなことをゆらゆらしながら思い出していたら、相方が遅れてやってきた。

私はさらに肩の荷が下りたように、自由に楽しめるようになる。

 

笑っちゃうけど、未だにあるのだなあ。

 

何かする時に、一瞬罪悪感がよぎった後「ああ、いいんだもう」と自分に言い聞かせたり。

それが、相方といるだけで感じずに済むものも多い。

私にとってはこの人がというより、その相方という存在自体が大切なのだなあ、としみじみ思う。

私をゆるやかに親から切り離す、言い訳のような存在。

 

そして、夜出歩く時は一緒にいると一人よりは安心。

帰りが遅くなっても、一緒なら変な気を使わないで済む部分も楽だ。

頼りになるかといったら別だけども、考えてみたら私は、誰かを頼らなくても一人で切り抜けられる方だから大丈夫だった。

ただニコニコ、うんうん、隣でゆってくれてれば、それでいいのかもしれないなあ。

 

最近こうやって自分のバックグラウンドを考えることが多い。

ほんとに、思ったより親離れできてないなあ……

人生も折り返してて、そろそろ自分の人生を親から切り離していかねばというところだろう。

それができるのか、よいことなのかは、よくわからないけれど、便利に、とかではなくて、ただ私は心地よく生きたい。

 

これが、剥離紙ぺろん。だろうか。

 

最後のお目当てのバンドは、行ったみんなで一緒にぴょこぴょこしてきた。

ごった煮のようなライブだったけれど、思ったよりもみんなも私も楽しめた。

誰か楽しくなさそうな人がいると、不安になるので、みんなで楽しめたという充実した安心感や

少し薄まった複雑な罪悪感が、楽しさを増幅させる。ヘラヘラしてくる。

 

お酒を一滴も飲んでない私が、一番陽気だった。

 

みんなは私がヘラヘラ笑いながらする、下らなすぎる話にツッコミを入れる。

こういう時の私は表も裏もなくて、ただ自然にヘラヘラしていられる。

こういう私をあの人はきっと知らない、と、チラっと頭をよぎる、なんだか異質な感情。

心にひっかかる何かを、深く考えないようにする。

 

帰り道、楽しかったなあ、と私は一人でしみじみする。

それを共有したいけれど、いまひとつ求められない部分なのは今更で。

わかってるんだけどね、白けるね。まあいいか。

 

最寄駅まで眠ろうとイヤホンを耳に突っ込もうとして、伝言を思い出して、あれこれ日々の相談をして。

そんなことをしているうちに、すっかり帰ってくる我が家。

日常の生活や現実。

愛しいペットが丸くなって寝ている。

 

ソファにごろんとしてアイスを食べる。

ああ、今日も1日が終わった。

週末が楽しみだな、夜更かししてあれこれ準備する。

週末が終わったら、その後は連休か。バイクでどこか出かけようかな。

 

そろそろ寝なきゃ、と携帯を充電して、アラームをセットする。

 

目を閉じる瞬間によぎる、剥離紙の向こう側。

ぺろんってなったら、その剥離紙はどうなるのかなあ。

どこに行くのかなあ。

 

心にひっかかる何かを、深く考えないようにすることはできても

確かに今の私の基盤となっているものがそこにはある。

関わりのあるような話をするだけで、私は楽しくなる。

私はちょっと切ないような、とても幸せな気持ちになる。

でも手に入らない。

 

もう難しいことは考えない。

 

なりゆきだ。もういい。

今は楽しいことだけ見ていたい。

もう手に入らないものを、欲しがりたくない。

手に入ったものだけで、孤独なんて感じないように。

 

これ以上、みじめになるのはやめだ。