虚無感を埋めるための代用品であってもそのひとつひとつは宝物なんだよということを書いてみる
最近暖かくなってきて、バイクに乗りやすくなってきた。
バイクは楽しい。
私は車の運転よりも好きだ。
何が楽しいんだろうな。
加速が楽しい、という人もいるけれど。
確かに教習車のCB400の、ギアを上げた時のエンジン音のふわっとした瞬間は「お前男前やなあ」と思う感じではあった。
でも、私のバイクは全然速くないし、そもそも速いの怖い。
ところで隼とかって、一般道をずっと一速で走れるって本当かなあ。
バイクの楽しさの源、なんだろうなあ。
と、考えてみれば。
なんか、一緒にいる感じが楽しいんだと思う。相棒感?なんか自分で言ってて若干寒いけど。
もちろんバイクからは返事なんかないけれど、ブツブツ話しかけながら走っている。(怪しいわ)
すごくざくっと言えば、個性があるというか、嗜好性が高いあたりもいいと思う。
私はもともとバイクになんてまったくちっとも興味がなかった。
原付すら片手に足りる程度にしか乗ったことがない。
そもそもあんまり自転車も好きじゃない。
1年前の私は、まさか1年後にの私が七転八倒して免許をとってバイクを新車で買ってブロロンして半年なんて思ってもないだろう。
っていうくらい、自分でも自分が良く分かっていない。
結局、1年後の自分が何をしてるかなんて見通しできないんだろうな、と思う。
1年後の私も、周りからあいつは自由だな、と思われているに違いない。
これからの1年も、今固執しているものをあっさり手放していたり、積み上げたものが形を変えたり、状況が一転したりするのだろう。
日々はゆっくりしているようで、時間の流れはとても早い。
なんとなく、バイクを乗ることになったのは、具体的に何って訳ではない漠然とした何かを、コツコツと積み上げた何かがあふれた瞬間なのだと思う。
虚無感の穴を埋めるためのものかもしれない。
結局それを埋められないのも知りながら。
単なる先延ばしだったとしても、確実に得たものがある。
この感覚のおかげで、様々なものを私は手に入れている。
だからこの虚しさ自体を否定をする気はない。むしろ肯定する。
現実逃避とも呼べるものなのかもしれないけれど、そのひとつひとつは愛おしいもの。
うちのペットは名前を呼んだって来ないけれど、私が手で差し出したものを食べる時は、指を噛まないよう口に運ぶ。
手であげない時は、がぶっとピンセットごと噛み付くのに。
どこでそんなこと学んだんだろう。単に指が美味しくなさそうなだけかな。
なんとなくその頭に指先で触れる。
なでなで。
目を細めて、されるがままになっている姿を見ると、出会えた幸せがあふれてくる。
君のおかげ。君のようなペットがいる私は、この上ない幸せな飼い主だと思うんだよ。
この穴みたいなのがなかったら、君にも会えなかったかな。
それとも、また別の機会に会うことになって…ああ、きっとそれも君かもしれない。
なんとなくそんな気もするな。
そっと指を離すと、ゆっくりと目を開けてから、私の顔を首を傾げて不思議そうに見上げる、丸い目。
この、何かを埋めたい埋めたいとあがくことはやめられない。
埋められたら、私はこの目みたいに、綺麗な◯になれるのに。
今はいびつな楕円。もしくはパックマンみたいな。
埋まったとしたらどんな私になるのだろうなあ。
それはもはや私じゃないのかなあ。
なんて、考えるまでもなく、埋まることなんてない。
そんな予感もする。
そろそろしんどくなってきたなあ、とぼんやり思う。
諦める気持ちが強くなる。それはそれで幸せなのだろう。代わりに得たものたち。私の宝物。
変な矛盾があるなあ。