駆り立てるのは野心と欲望、横たわるのは犬と豚とつぶやいたことについて書いてみる
夫婦でも友達でも家族でも恋人でも、その「気分」や「波長」が合う瞬間って貴重だと思う。
逆に言えば、その「気分」さえ合うのならきっと、多少身体の相性が悪かろうがお金がなかろうがいいんだろう。
とも思う。
だんだん年を重ねるごとにめんどくせーな、と思うことが増えてくる。
例えば頑張ること。
最近では仕事すら、もうめんどくさくて、上司に任せます、と進退を委ねてしまったほどだ。
すべてがもう、面倒くさい。
それでも我慢して頑張らなきゃ、と思うこと。
生きていくためには必要なこと。潤滑油だったり、自分の保身のためだったり。
それは家族間や友達ではかなりあって、夫婦間でもそれなりにはある。
今までそれは相手のことを思う行為であって、いわゆる愛の形というか。
もうちょっと意識の中で高尚なものだった気がするのだ。
けれど最近は、もういっかな、と投げやりな気持ちにもなってくる。
何につけても動くには動機付けが必要なのです。
オペラント条件づけ。
最近、友達の誕生日プレゼントとして、何がいいかなと考えて悩んでリサーチして、お目当てのものを手に入れるため、休みの日はるばる出かけて苦手な場所に踏み込んだ。
でもその時間は、友達のことを考えて、似合うかな、喜んでくれるかな、と相手への気持ちが高まる時間でもある。
この時間をひっくるめてのプレゼントであることを、きっと友達は分かってくれる人だから。
私は彼女への労力を惜しまない。
うちは、いわゆる食べ放題によく行く。
とりたてて美味くも不味くもないようなものをたらふく食べられるようなお店。
単品でなくて、いろんなものがある系の。自分で取りに行く系の。
野のぶどうとかニラックスとかのブッフェみたいなああいうの。
ホテルのブッフェほど高いものではなく、すたみな太郎ほど体育会系でもないところ。
お互いきっと、とにかく相手に気を使いたくないのだ。
自分が食べたいものだけを食べたいだけ食べたい。
相手とペースや量を合わせたりもめんどくさいし、そもそも「何食べたい?」と擦り合わせる時間すらもったいない。
上野動物園のパンダが2年交尾がなかったというニュースに「ヤバいくね?パンダ越えてね?」って二人で失笑するレスっぷりではあるものの、私たちはとても仲がいい方だと思う。
じゃれついてハグされることも良くある。
私が一人で出かけない限りは、ほとんど一緒に過ごしているし、よく話もする。
しかし要領を得ない相方の話は、聞くのも多少面倒くさい。
きっと向こうも、お腹空いたとか眠いとか疲れたとかゲームやりたいとか仕事行きたくないとか本能的コンディションに心が左右され、満たされていて心に余裕がある時間以外は面倒くさいと思っているだろう。
そもそもが食べ物の気分が違うのと同じように「話したい気分」と「まったりしたい気分」が合わないことが多く、いつもどちらかが聞き流し気味な会話。
突き詰めて話していくと考え方が合わないのも分かっているので、たまに政治の話や社会の話をする時も、面倒くさくなって終わってしまう。
だから表面上の、ゲームの話とか、グラビアアイドルの話とか、会社の話とかをサラーっとする程度が一番気が楽だし楽。
楽。
とにかく楽。相方といるのは楽。
……楽って、心地いいことだけど。
心地よいもいいことだけど。
楽=心地いいだからって
楽がいいって訳じゃない。
のだろう。
楽じゃないとしても心地いい、だってあるはずだ。
薄々分かってる。でもじゃあどうしたらいいのか、考えても仕方ない。
のも分かってる。
我慢して頑張りたいと思う気持ちが、楽したいに負けている状況で、何かを高めることはできないからだ。
安堵感は感じられても、充実感を感じることができないからだ。
お店に着き、お互いモグモグと食べたいものを食べたいように食べて、空腹が収まった頃、珍しく私たちは向き合ってマジメな話をポツポツとする。
今回の議題は自分との戦いの話。
結局一番難しいのは自分を信じることだよねって話だった。
バイクやスノボは視線を向けた方向へ勝手に進む。
行きたくないなあと考えていても、意識すればするほどそっちに引き寄せられていく。
だからきっと、「ならないといいなあ」って考えれば考えるほど引き寄せてるんじゃね?みたいな。
したくないな、も、したいな、も、結局最終的には、意識のベクトルは同じような気がするのだ。という話。
相方は俺が折れたら夫婦は終わりと言う。
でも、きっとあなたの中でどこか「俺じゃダメなのかな」って気持ちがあるんだと思うと私が言う。
相方はしばらく黙って、口ではモゴモゴと否定とも肯定ともつかない相槌を打ちながら、表情だけで図星であることを示す。
相方は私のことが大好きだ。
それはよくわかる。望まれることをやってきた。
私の中にもきっとある。
「このまま別れていいのかな」という気持ちが。
だから二人とも微妙なシーソーゲームをしているのだろう。
もう何年も。きっと、籍を入れる前から。見て見ぬ振りをしながら。平気な顔をしながら。
そう過ごすことによって、私たちは私たちらしい関係を形成している。
一般的な夫婦としてはすでに終わっている。
それでも私たちは夫婦であり、期待していたものとは違ったとしても、一概に悪いものではないとも思う。
こういう幸せもあるのだろうと。
少なくとも二人とも不幸ではない、と思う。
私たちは悪い意味で我慢強い。相性がいい。
そんな微妙なパワーバランスに違和感を感じている限り、私たちはきっとこのままなのだ。
変えたくて仕方なかった。
もっともっと愛したいと願った。我慢したいと。
いっぱい我慢すれば、いっぱい帰ってくるのだと思って、いっぱい頑張ってきた。
疲れてしまい、楽な方に流れてからも、特に二人の間は変わらない。
相方は変わらず優しい、と思う。
頑張ったものは、あってもなくても良かったものだったのだ。
寂しがっているのも、必要としているのも、本当は私なのだ。
絶対に言わないけれど。
だから、愛してると、大好きだからずっと一緒にいたいと、言われると辛い。
突き詰めて、お互いの愛が分かち合えない質のものであることを知りたくない。
じゃあ同じ質の愛を持つ人なんているのか。
ほぼいない。だから今を大事にする。それも間違ってない。
だけどゼロじゃない。だから今、座りが悪い。それだって間違ってないと思う。
あの人へも、あの人へも、私は永遠に片思いをしている。
いつもいつもそう。と、自虐的に思う。
しかし、それでもいいか。と最近は思う。
私は確かに相方のことが好きだ。望む形ではないけれど。
世の中はそういうものなのかもしれない。
「現代人は欲が深い」と相方は言う。
ウルグアイの元大統領が言うように、日本人は大切なものを資本主義とともに捨ててきた。
けれど、引き換えに手に入れたものを手放す気はない。自由は甘受したい。
めんどくさいものは嫌いだ。楽はいいことだ。
「あれもこれも欲しがるのは、本質が満たされないからだ」と私は言う。
欲がないと、より良くはならない。
自分を高めるための推奨される欲と、「強欲」と蔑まれる欲の違いってなんだろう。
例えば、英語を話せるようになりたい、キャリアを積んで出世したい、と
もっと自分だけ有利に、我田引水的に、楽して暮らしたい、は、同じ欲じゃないのか。
「ここに穴が空いてるのが嫌だ」という不満に
「でもここには山も川もあるよ」と言われて、一見それでいいかと思うかもしれないけれど。
論理のすり替えであって、目くらましにすぎない。
欲しいのは穴を埋めるものであって、むしろ穴が埋まるなら、山も川もなくなっていいのかもしれない。
それを「山も川も持ってるくせに、穴なんて気にするなんて、欲深だ」と言われたって。
本質は満たされないのだから仕方ないのだ。
資本主義と愛は相容れないんだよねえ、と話して終了。
結局はフロムだ。
自分との戦いだ。
自分の問題だ。
こういうシーソーをキコキコして、私たちはなにかの結論が出せるのだろうか。
いや、出せないだろうな。
出せるのだろうか、なんて思っているうちは、きっと起死回生的な、何かを待っている。
二人とも。
薄々、自分がその玉を投げなきゃいけないことも分かっている。
面倒くさいじゃない。そんなの。
自分が悪いって思いたくないじゃない。
楽していたいじゃない。
それもすでにダメなんだろうなあ。
正しいこととかはなくて、結局はフィーリングとか信念とか、そういったファジーなものなのだろう。
こんな風に潜って潜ったとしても、私は結局何もわからないのも知っているけれど。
あらがっても、望んでも、私には手に入らないものだった。
それでも諦めきれず思い続けたことは、単なる強欲ではないと今は分かる。
「思い通りに行かないのが世の中なんて割り切りたくないから」
それが、幸せなんだよ。と。
せめて言ってくれないだろうか。