花は折りたし梢は高し

とにかくいろいろうまくいかねーなってことを書いていこうと思います。

和歌にでも読めばいいような思いとやらを書いてみる

色恋の話ばかりもナンなのですが

結局現実社会で言えない匿名で吐き出したい話題っていうと

それが動機だったりすることも多くてな。

 

会いたくて震えたり言いたいことの言えないこんな世の中。

朝も夜も君に会いたくてラーラーラー言葉にできないと大忙し。

昔はものを思はざりけりと1100年位前なら和歌にでも読めばいいような

思いとやらを、あまり自分に縛りを加えずこれからも徒然と書いてみようと思う。

 

客観的にみると

どうなのか、という殿方に骨抜かれていました。

 

いや、多分すんごいその筋の人にはモテるんだと思うよ。

周囲に与えてると自分が持ってるイメージと

実際のイメージと

実際の本人が全部違う上にあんまり自覚がないという

ややこしい人ではあった。

 

一言で言えば、器用貧乏な不器用。 

普段は社交的なくせに二人きりになった途端上目遣いの体育座りを炸裂。

チラチラ扉から覗いておきながら、こっちがドアノブに手をかけようとすると

「やっぱり無理」とパタン。

こっちがぷいっとすると、やっぱり薄く扉を開けて

何か言いたげな顔でこっちを見ておる。

なにその母性本能刺激プレイ。

 

それを、それはもう年単位で繰り返されてるうちに

「気になる」

「ほっとけない」

「好きかも?」

「好き!」

「好きー!!!!」

 

なんとも恐ろしいデススパイラル。ブルッ。

 

私のような自分に自信がない人間からすると共依存への第一歩なのか?

取れそうで取れないUFOキャッチャーを前に、鼻息荒く心を課金し続ける訳です。

 

そして自分のダメさに自己嫌悪する。

あらやだ、お肌も荒れるっつの。

閉まるドアを見つめるたび、ため息と諦めを噛み締めて踵を返す気持ちが分かるか!?

 

掴めないけど触れられる液体のような存在に何度も手を伸ばしては

自己嫌悪をしているだけと悲しくなってくる。

ズブズブと足場が砂に埋もれながら。

 

そしてこっちが弱って諦めかけた時は、トコトコ扉から出てきてぎゅっとしてくれたりもする。

 

ここで夢をみる。

「同じ夢を見られるのかもしれない」という妄想をする。

 

しかし現実は厳しい。

ドアノブに手をかけようとすれば、途端にドアはしまってしまう。

 

そして、これはもはや、相手が自分のことが好きだろうがそんなつもりはなかろうが確信犯であろうが私の気持ちが自己承認欲だろうがどうでもいい。

 

私が本当に掴みたいのはドアノブじゃないのだ!

彼の手なのだ!

かっさらってやろうか。

いやそうじゃない。

 

それが更には本当の愛じゃないのはわかっているのです。

突き詰めれば単なる恐れであると。迷いであると。

 

フロムの「愛するということ」を読んで「愛とは技術」と何度唱えても

「知識と努力が必要」と膝を叩いても、

「成熟した人格を必要とする高度な技術」と頷いても、

頭ではわかっていてもどうしようもないのです。

 

ただ存在に触れている空気、居心地がよくあたたかく柔らかい。

ドアを半開きにして、体育座りしている彼の前にしゃがみこんでいる時間や

彼の腕の中でホッとして肩の力が緩んだ時間、言葉遊びを重ねている時間。

繋がってるような錯覚がある。それをもっと感じていたい。手放す孤独が恐い。

 

それを愛と言わないのでしょうか。フロムさん。

「べき」とか「である」は一時的に呼吸を楽にするけれど

結局根本的解決には行きついていない。

 

と、そこで学んだ小池 龍之介さんの「こだわらない練習」より、

「それ、どうでもいい」という過ごしかた。

そして山本 貴光さんの「心脳問題」で学んだ「ジレンマから逃げる方法はない」

 

そうなのです。

それ、どうでもいい、と執着を手放すしか

このジレンマから抜け出す方法はないのです。

 

快楽には苦痛がワンセット。

快楽だけを感じ続けることはできない。

現実から目をそらし、私は本当はずっと待っていた。

鼻息荒く「私がなんとかしたる!」と理解者気取りで思っていた。

でも本当は、救ってほしいと思っていたのは私の方だったのだ。

ドアノブに手をかけるだけで、押しても引いてもいなかったのかもしれない。

本当のドアの重さを知ろうとしなかったのかもしれない。

 

いつかドアが開いて、一緒に手をつなげる日が来るのだと。

ただ漠然と思っていただけだったのかもしれない。

 

ドアの前で当たり前のようにふてくされていた私だったけれど

ドアは本当はとっても重くて、彼は、ずっと、ドアを開くのすら

苦痛を伴う行為だったのかもしれない。

私がため息をつくたび、無力さを感じていたのかもしれない。

それでも「弱音を吐くな」と切り捨てている私に

言葉を奪われながらもただ他にどうしようもなく

ただドアを開けたり閉めたりし続けたのかもしれない。

と、思うけれど、それもまた何かの術中なのか。

もはや分からない。

 

私は、フロムさんの言うような

「お互いが高め合って」「ひとつであり、ふたりである」

そんなお互いの愛情との迎合に

子供じみた憧れを持っていたのです。

 

待っていても、同じドアはくぐれないのに。

私のポテンシャルが足りない。

 

と、はたと気がついた。

散々傷つけた。

私が突き飛ばしたり蹴っ飛ばしたりしたドアも

ドアの中の彼もボロボロだった。

 

ドアは彼が築き上げた、彼自身を守る存在でもあったのに。

 

果たしてそこから連れ出すことはいいことなんだろうか。

 

ずっと反対の解釈をしていた。

ただ私は、掴みたかっただけなのだ。その手を。

 

しかし彼は、引き換えに、違うものを得ようとしていたのだ。

そして引き換えに失うものは、私が認識していたよりも

ずっと心許無い不安の塊であり

負担の大きさは予測さえつかないものだったのだろう。

たくさんのものを犠牲にして、ジレンマを抱えながら

私と対峙してくれていたのだ。

 

私は好きという気持ちを大義名分に、ずいぶん遠くへ来てしまった。

 

私が勇気を出す番なのだろうと漠然と思っていた。

それを出すときが来たのだと、喪失の伴う身体の痛みと共に

目が覚めて見慣れない白い天井を見ながら、ぼんやり思った。

 

例えるなら、完全に貝のように閉じた扉を見て、

手から滑り落ちた「バールのようなもの」が床に落ちたような。

 

手は血だらけだけど、金属に体温を奪われて、ひどく冷え切って麻痺している。

 

自分は傷ついたのかもしれないが、今の所あんまり自覚はない。

 

いずれ痛むのだろう。

でも、それだけ傷つけたのだとも、思い知るのだろう。

 

私のありがとうが

届くことのない薄っぺらいものだとしても

何度もドアを開けてくれてありがとう。

私を抱きしめてくれてありがとうと。

たくさんの痛みの伴う勇気や犠牲に、今はただ感謝したい。