花は折りたし梢は高し

とにかくいろいろうまくいかねーなってことを書いていこうと思います。

フワフワとした曖昧さや寝起きに感じた思いについて覚書を書いてみる

一通り私の下らない話を聞いた、親友はどう思ったのだろう。

とりあえず私ともっとじっくり話りたいなあ、とつぶやいてくれたことは分かっている。

救われるような思いがして、それにすがり、それでなんとか強引に眠りの中に落ちた。

 

肝心な、叩いても叩いても響かない、画面の向こう側への淡い期待は、やはり予想通り、見事に虚しく空を切った。

 

1年遅く訪れた、正念場というやつなのだろう。

 

ところがどうだ。

肝心の私ときたら、まったく余裕も余力もない。

強さも優しさもない。愛と勇気もない。(やーさしいきみはー)

 

そうなのだ。

色々と未練がましいことを言いつつも、現実的に粛々と、切り離す準備を進めているものもある。

それは前向きな進展なのか、後ろ向きなものなのかは、私にもまだ判断ができない。

多分、どちらでもあって、どちらでもない、みたいな。

そういうひどく曖昧なものなのだろう。

 

考えてみれば、ずっと曖昧の中にいた。

はっきりさせないことが、なんとか存在できる方法だった。

それもひとつの真理でもあるんだと思う。

 

そもそも、しぶしぶだったのだ。

いつも試しているようなことを言いながら、実は試されている気がする。

やせ我慢して飲み込んだつもりで、結局我慢できず、ぺっと吐き出した。

 

全力で肯定したかった。自分の決断や行動を。

それすら気を配ってもらえなかった。

 

目覚めは悪くなかった。

最近は目覚ましアラームの1時間前に眼が覚める。

先に起きている同居人が、洗濯機をまわす音。

 

抱き枕がわりのぬいぐるみを片手にリビングのソファで、壁に向かってごろんとする。

ぬいぐるみを抱えて丸くなると、同居人は私を背中からハグしたり、頭をつっついたりしている。

ねむいねむいと私は呪文のようにつぶやく。

 

シェーバーの音や、テレビの音、洗濯機の音がうるさくて、また寝室へ戻る。

隣の部屋に洗濯を干しに来た気配を背中に感じながら、またうとうとと眠りに落ちる。

その瞬間、憎悪にも似た空虚を覚える。

 

ちょっと前まで、そこにいる感情は、ただ圧倒的な愛おしさだったのだ。

どこに置いてきたのだろう。今は同じかそれ以上の、虚しい諦めが心を埋めている。

 

ありがとう、愛おしい曖昧。

さよなら。

女が過去の話を持ち出してネチネチ責める心理について書いてみる

最近人間関係の衝突についてよく話をきく機会がある。

 

私自身も、よく怒り続けているので良く分かる。

よく女性にありがちな、ネチネチ前のことを延々と言い続けるアレである。

 

私は女なので、100%女寄りの意見となることをお許しいただきたい。

 

脳の仕組みの違いなんだろうか。

男はさぞ「いつまで言ってんだよ、クソが」と舌打ちしたくなることだろう。

 

しかしながら、怒ることはとても体力がいる。

怒るだけの熱意も必要になる。

その表面上の言葉だけを捉えていては、いつまで経っても枝葉から幹へはたどり着けない。

 

女だって、ああ、もういっかなあって思うことも多々ある。

だけど、そう言っちゃったらそこまでだよなあ、と。

 

怒る以外の自己主張の方法だってあるだろう、と他人事なら私も言う。

 

イラっとしたら、黙り込んでしばらく貝のように閉じこもるか、気がすむまで距離を置けばいい。

ただ、もともと飲み込めるほどの、キャパシティに収まるような怒りだけで済んでいるなら、ネチネチは言われないのだ。

あまりにも大きな痛み。もしくはささいな痛みの積み重ね。

飲み込んだつもりの怒りが逆流し、んんん、どうしても腹がおさまらん!となっているのだ。

そうなるとアレだ。ドカンと爆発をして、( д)、ペッと吐き出す。

 

そのあと情熱自体がスッと冷めてしまう。もうどうでもいいわ。となる。

こうなってしまうと自分でもどうしようもない。

「この人はダメだ」と見切りをつける。待っているのは離別のみ。

 

離別を切り出した女性に言うのだ。「え?なんでいきなり?」

よく聞くよねーコレ。

 

家族だから友人だから恋人だからと甘えていい範囲とそうでない範囲がある。

傷つけたことに対して「そんなことで傷つくなよ」と言うほど相手に寛容を求める人ならば、間違っても逆ギレなどしない菩薩のような精神の持ち主なのでしょう。

アハハ。

 

仕事のクライアントかなんかだと思えばいい。

例えば一度の請求書のミスを、今までの付き合いに免じて許してもらえたからといって、二度三度は許してもらえるかといったらどうだろう。

今まで許してくれてたじゃん。大した間違いじゃないじゃん。

仕方ないじゃん確認する時間なかったんだから。

分かってるならいちいち指摘すんなよ。

 

そんなのはいつまでも通用しない。

 

相手はいい加減にしろ!あなたの会社は信頼できない、取引停止だ!とご立腹。

と、怒ってくれているうちはまだいいのだけどもね。謝る余地があるから。

ただ粛々と、取り付く島もなく取引が打ち切られる方がキツイ。

 

もしくはお気に入りのお店や企業から、とんでもない接客や対応をされたとしよう。

気に入っていた分、悲しくて悔しくて、思わずクレームをつけた。

その時ろくに聞かずいい加減にとあしらわれて、そのクレームが流されたらどう思うだろう。

 

「いや、聞けって。まず聞けって。どんだけひどかったか……」

(話を遮って)「あーハイハイ、サーセン。っていうか、いつまで言ってんすか。」

「は?本当分かってる?」

「や、悪かったのは分かってるんで。もういいでしょ?謝ってるんだから。」

ちょ、責任者呼べや、となるか、もうええわ…となるかのどちらかだろう。

 

どうにかしてほしい、と。分かってよ、と。

今プンプンしているのは、実際はそこまで怒っていない。

いきなり?と言われないように、奮い立たせて怒っている。

そこにあるのは愛である。

 

結局ずいぶんと昔の出来事をほじくりかえして、ネチネチ言いたくもないのに言っているのは

思い出すだけでキツイのに起こり続けているのは、結局不満や不信が収まってないからだ。

 

相手からすれば、うわ、なんか急に怒り出した!となり。

何で今更?何を突然?何をきっかけに?

「許してくれてたんじゃなかったのか」「受け入れてくれたんじゃないのか」という辺りが本音だろうと思う。

 

世の男性陣に言いたい。

確かに女性の言い方は論理的じゃないかもしれない。

ただ、男性こそ論理的になるべきなのだ。

あなたのやってきたことが「ふわっとしたなにか」で許されるわけじゃないんだと。

論理的に謝罪すべきなのだということに気がついていただきたい。

コレコレこういう事情があって、コレコレこうなった。

でも今はコレコレこういう風にして再発防止に努める。と。企業の謝罪会見のように。

心から納得してもらえるように。

 

どんな理由であれ、あなたが深く傷つけたその出来事は、あなた自身にとっては通過点であって、終わったこととなっていたとしても。

実際許されているわけでも、受け入れているわけでもないのだ。

終わっていないですよ。溜飲を下げられてはいないですよ。流せてもいないですよ。

ただ結論や判断を保留しただけですよ。

あなたへの大いなる愛をもって。力づくで。痛みを伴いながら、心に収めたのだ。

 

直視を避けて逃げ続けられる限り、その傷は癒えることなく膿んでいく。

 

すっかり終わったことのようになっている、忘れきった様子を見て、下手すると同じことを繰り返す様子を見て。

いずれ愛だけでは支えきれず、爆発する。

 

その本質は怒りではない。ただただ、悲しいのだ。

愛を持って棚上げしたその痛みすら、気付かれていないという事実に。

当たり前と思われているその扱いに。

 

高まったフラストレーションの正体とは、結局のところ、信じてたものが裏切られたと感じているからだ。

共感が得られると思っていた相手から、自分の、当たり前と思っていた価値観を否定されたような気がするからだ。

 

そしてそれでもなお怒り続けている理由は、これ以上相手に失望したくないからだ。

分かってくれる人だと信じたいのだ。

 

そこから逃げ続けたところで、許される日はこないのだから。

ただ失望されるだけなのだから。

怒られているうちに、相手の気がすむまで向き合っていくしかない。

やっちまったもんは仕方ない。

それがうっとおしいめんどくさいと思うなら、向き合うことを放棄するならば、その関係性ごと捨ててしまえばいい。

居心地の良いその場所はキープしながらも、めんどくさいことには向き合わない。

そういういいとこ取りをしようとしないで、まるっと放棄して逃げて、相手ごと失うという選択権もある。

 

「もうお前なんていいわ」と放棄されたら方は辛いだろう、泣くだろう。

けれど、心のどこかで理解もする。

そんなギリギリの部分をかけて自己主張をするリスクが分かってもいる。

嫌われるかもしれない。捨てられるかもしれない。こんなめんどくさいこと。

 

そういうリスクが分かっていても、ギリギリの所でネチネチを続けるのは。

「そんなに信頼をしてくれていたのに裏切ってしまって」と、「俺が悪かった、なんてことしたんだ」と。

「全然分かってなかった、これからは大事にするから、もう一度信頼してほしい」と。

いつか共感してもらえるんじゃないかという儚い望みにすがって、この期に及んでもまだ信じているから。

そして、もし自分ごと放棄されたとすれば「そんな程度の相手を自分が大きな痛みを伴って、愛していたこと」が情けなくて泣くのだ。

自分の見極めの甘さを、自分の魅力のなさを責めるのだ。

 

結局怒らせてしまったら、共感して謝り倒して二度としないと信じてもらえるまで何度も誓ったり謙虚な姿勢を示して

がむしゃらに取り戻すしかないのだ。失った信頼を。

そのプロセスを経て、「もういいよ」と相手が音を上げるまで、何度も何度も。

 

間違っても「いつまで言ってんだよ」「俺にだって都合があったんだよ」と逆ギレ的な自己正当化をしてはいけない。

気持ちは分かる。とかく女はめんどくさい生き物だ、と私自身も思う。

しかし相手は大事なあなたを信頼して取引を続け、ささいなミスも笑って見逃してくれていたクライアントだと思っていただきたい。

裏切りたくない、取り戻したいという切実な気持ちと緊張感を持って、信頼を取り戻しに行っていただきたい。

 

「もうどうだっていいよ」と見捨てられていたら、それはかなり難しいことだが。

怒っていてくれていればいるほど、思ったほど、手こずらないはずだ。

むしろ、見直してもらえるかもしれない。「やっぱり信頼できる人だ」と思うかもしれない。

 

お気に入りのお店や企業にガッカリしながらクレームをつけた時、予想以上の共感と対応をしてもらったら、更にその企業を好きになるだろう。

好きでよかった、やっぱりここはいい!と好感度が上がるのと同じく。

固形物を食べない生活を数日だけして感じたことを書いてみる

生まれて初めてゆるく断食的なことをした。

 

この時期に熱中症と合わさってぶっ倒れても迷惑だし、日頃から乱れ気味の腸内環境も心配なので、1日1回~2回程度、豆乳を飲んだり、ヨーグルトなどを食べてたりをしているので、厳密に断食とは言えないかもしれない。

サプリメントと常用薬以外の固形物を口にしていない。

毎日飲んでたコーヒーも控えているし、お茶も飲んでいない。

 

1日目はお腹が鳴って仕方なかったが、時間の経過とともに空腹感は和らいだ。

お腹はたまに思い出したように鳴る。

頭がなんとなく重いとかはあるけれど、むしろお腹が重くない感じが軽やかで心地よい。

必ず健康診断でひっかかる、胃のためにもいいのかもしれない。

 

ちなみに、同居人には隠しているわけではないが、あえて言ってもいない。

そもそも気付かれてもいない。

 

ああ、お互いの食に対する興味ってそんなものよね。と思う。

 

そして日頃、どれだけ自分がいいかげんな食生活を送っていたかが分かる。

食べ物に失礼だ。もっと敬意を払おう、と考える。

 

私は食べることが子供の頃から大好きで、それはもう妄執と言っていいほど好きすぎて、肥満児だった。

親の目を盗んでどれだけお菓子やらおかずやらを食べたことか。

食べるものが見当たらなければ、自分で冷蔵庫にある食材を料理して食べた。

今思うと、ちょっと異常なまでに食べ物を求めていた。

 

初めてダイエットをしたのは高校生の時。

どうやったのかは忘れたけど、とにかくなんかやみくもに歩いたり、ひたすらにこんにゃくを食べたり。

かなりキツかったことを覚えている。

 

そのあとも幾度となくダイエットしてみたり戻ってみたり。

 

私は大人になり、基本体重計に乗らなくなった。

心が欲するものを欲するように食べるようにした。

例えば本当はお米が好きじゃない。だからお米を食べなくなった。

その分卵やお肉や豆という私の好物を食べたいように食べた。

 

次第に、異常な食への執着は薄らいだ。

◯◯せねば、という抑圧が余計によくなかったのかもしれない。

 

気づけばなんとなく、体はすっきりしたし、それをキープできるようになっていた。

肥満とかまでは言われなくなったし、人よりは太ましいとしても、まあそれはいいや、と思った。

モデルさんのようになりたいわけではない。(なりたくないわけでもないけど)

 

それが最近、どうも体が重い。顔も丸い。

心当たりはある。

加齢による基礎代謝の低下やらはもちろん、服薬の影響も。

 

ダイエットしようとは思わなかった。

ただ純粋に、食生活を変えていないのに不思議だなあ、いやだなあ、と思っていた。

 

鏡を見るたび、丸い顔にげんなりしていた。

 

そして必要に迫られた。2年前にイージーオーダーで作ったタイトなドレスがキツくてファスナーが上がらない。

ぐぬぬ。服が縮んだなんて訳はないのはわかっていた。

 

ラインを絞るために入っている、ダーツを外せばいけるけども。

いや、それも何かに負けたみたいでやだな。

いっそ違う服…いや、それはダメだ。周りとの兼ね合いもある。

 

そこで食べ物と距離を置いてみようかな、とふと思った。

痩せたかった、というよりは、純粋な執着の放棄。

 

断食は感覚が冴えて超体験ができる、ともよく聞くし。

中途半端に「これだけ食べていい」みたいなのもやめて、固形物は食べない。

それでとりあえずしばらく過ごすことを決めた。

 

普通に仕事もしているし、普通に習い事の運動もした。

毎日こだわっていた飢餓感へ応じることや、食への執着がどれだけ生活に関係がなかったかを感じる。

 

呼吸ひとつで、血が巡るのを感じる。

体をいたわる気持ちになる。

 

考えてみればうちの小さな家族たちも、とてつもない食の執着を持っていながらも、種としては1.2週間程度食べなくても全然平気らしい。

私はあの子達よりよっぽど生命力も強いし、蓄えだってある。

そりゃあ多少食べなくても平気だわ。

それを何をあんなに食べたい食べたいなってたのだか…食への執着からの解放は、こんなに楽になるものなのか。

 

なんだか食べるということに対して、もっとラフに楽しんで付き合いたいなあと思う。

例えば、一人で美味しいものを食べるんじゃなくて、大事な人と食べるから美味しいってこととか。

どんなに些細なものでも、もっと「味わって」「丁寧に」食べられるようになりたいなあ。

 

得るものが思ったよりも多かった。

断食、いいな。かっこよく言うと、ファスティング

苦行でしかないと思ってたけど、そんなことは全然なくて。

楽しいものではないけれど、たまにあるといいかもしれない。

 

仕事にさえ行かないでいいなら、水だけで過ごしてみたいとすら思う。

そして読書をしたり、のんびりしたり、瞑想したりして一人で過ごすのだ。

 

そして無事、ドレスのファスナーは上がり、ことなきを得たのだった。

痩せたという感覚はまったくなくて、ただ浮腫みや老廃物が流れたような、すっきりした感覚はあった。

肌の調子も心なしかいいような気がする。

 

問題はここからである。

気づけば6日間固形物を食べていない。からの復食。

何から食べていいのかよく分からない。ネットを調べれば重湯だのと出てくる。

なんかなあ、なんとなく、お米や麺は心が乗らないなあ。

もっとこう、違うものがいいなあ。

 

やっぱり心に聞いてみよう。

 

味覚は鋭くなっている気がする。

そこから、残り物の野菜をたくさん煮て作ったスープを食べた。

水切りヨーグルトが蜂蜜入りに昇格した。

市販の冷製ポタージュやプリンも食べてみた。豆乳はお昼に飲む。

一番今の所しっくり来ているのは茶碗蒸し。

これなら冷たくても温かくても美味しいし、お腹も痛くならない。

 

そうして慣らしているうちに、日に日に食べられるものが増えていっている。

感覚が戻っていくその感覚も楽しんでいきたいと思う。

 

明日は人並みなランチを食べる予定。

はてさてどうなることか。

遠いところにいるあなたのことを考えてした、ひとつの大丈夫を書いてみる

あの愛想のない仏頂面の写真しか残ってないよ。

もっともっと笑っていた気がするのに。

それは単に、私には笑顔を見せてくれてたってことなのかしら。

 

今の私の話を聞いたら、あなたはなんて言うだろう?

 

バカだなあって言うかなあ

黙って苦笑い

それとも

 

でもね、多分私は言わないんだろうね。

 

今だからこそ、心で、頭で、話掛けるけれど。

 

私は上手にできてるかな。

もっともっと話がしたかったよ。

いろんなことを教えて欲しかった。

私もいろんなことを教えたかった。

きっとね、私の方が詳しいことも、今はいっぱいあると思うんだ。

 

たばことたたみのにおい

静かなテレビの音

忘れてしまった声や仕草

 

引き戸はいつも開いていた

 

あなたが不器用に紡いだ

糸に繋がる私

 

私はね、そういうのを残していきたいと思うよ

やっぱりそう思うよ

私だけでなく、次へ、その次へ

 

あなたもきっと、異国の空の下で夢中になったことがあるのだろう

だけどそれを諦めて、帰ってきて、そうして私が今ここにいる

 

私も糸を紡いでいかなくちゃと思うの

もう止まっていてはいけないのだと

どう糸を紡ぐかが問題なのではなくて、とにかく一心につなぐことが大切なのだと

 

あなたもきっと迷ったり悩んだりしたのでしょう

でも確かに、あなたは迷いなく私をまっすぐに愛してくれた

言葉はなかったけれど、私には良く分かっていました

だからこそ

 

それは嘘じゃなかった

絶対に偽物ではなかった

だから大丈夫だとやっと思える

 

少なくとも紡げる機会があるならば、私はそれを全うしなくちゃいけないね。

呪いのように何年も片想いをしていることを書いてみる

その人のことが、私はもう何年も好きだ。

それはもう、呪いのように好きだ。

 

どうしてそんなに好きなのか、といざ聞かれると困るけれど。

うちにいる愛しい小さな生き物たちが、リアルに口に入れてしまいそうになるほど可愛いのだって、目が丸いから?とか、口角が上がってて笑ってるように見えるから?とか

なんだかハッキリした理由にならないようなものばかりだ。

 

ちなみにこの食べちゃいたいくらい可愛いだいすきって気持ちは、気持ちの高ぶりが強すぎてどうしようもなくて

フラストレーションが溜まることにより真逆の感情でバランスをとるためなんだとか。

ああ、もはや自分の中に取り込みたい!と思うくらいすきっていう一面もあるのかな。

 

そもそも、もっと自分が望む「好みの」「条件の」人は、他にいくらでもいる。

もちろん、自分の履歴書で応募できる会社が限られるように、選ぶ幅というものには個人差はあるとはいえ、多少の条件は、あくまで「選べる」ものだ。

じゃあ、もっと自分がいいと思う条件の人を、ということだけども。

それは根本的に違う。

 

条件を好きなわけじゃなくて、選ぶのではなくて。

私はその人だから、その人自身が、たまらなく好きなのだ。

What do you want meaning for? Life is desire, not meaning.

 

好きになる人は、頭では選べない。

意味も理由もそこにはない。

 

どうして、ではなく、どんなところが好きなのか、と聞かれれば、どうでもいいようなことばかり煩悩の数くらいは余裕で答えられる。

私の話を聞いてくれる時のふとした仕草だとか、隣にいるときの柔らかい表情だとか。

 

私は長いこと好きすぎて、それこそが自分だと思っている。

 

自分の中の変化。

自分はそれが怖いのだと気づいた。

変わらなきゃいけないとすら思っていた。

だけど心のどこかで「なにそれ」とずっとずっと思っても、いた。

 

その人はまるで大事な魔法を唱えるように私を呼ぶ。

その人の気持ちも伝わって来る。

幸せになる。

だけど私は、ずっと長い間、片想い。

 

パンを食べるように、ちぎって私を取り込んでくれないだろうか。

ずっと腕の中に閉じ込めておいてもらえないだろうか。

 

そうしたら私は変わらないで済むのに。

と思いながらも、やむを得ず一歩、踏み出して、その手を離した。

 

だんだん歩き慣れてきた道を、前のように感慨深くもなくなんだか当たり前のように、自然に歩いている自分。

それをちょっとだけ、後ろめたく思うようになってきた、そういうひとつの変化。

 

迷うことは確実に何かを磨耗するけれど、卑怯なことじゃないとは解っている。つもり。

なのにどうして、こんなに苦しくなるのだろう。

 

捕まえておいてほしい。

もう、どっちでもいいから。

 

このままだと、私の心がバラバラになって、どこかへ行ってしまいそうだ。

ひとつの小さな命を見送ったことや空虚の昇華についてもがいていることを書いてみる

ひとつの命を見送った。

 

自分がこれほどまでに落ち込むことに逆に驚いた。

覚悟はずいぶん前からしていたから。

 

私は昔から、小さな命と一緒に暮らしていたし、肉親や恋人を亡くしたこともあるので

その分、見送ることにだって慣れているとタカをくくっていた。

心の整理のつけ方も。向き合い方も。人よりは少し、慣れていると思っていた。

 

泣くから愛があって、泣かないから冷たいではないと思っていた。

嘆き悲しむことだけではない。壮絶な喪失感との戦いでもある。

やるべきことを全部やってたら、涙がでないこともあるんだ、なんて思っていた。

 

見送るっていうのは、そんな綺麗事ばかりではない。

 

心のどこかではむしろ、どんよりとつきまとう嫌な空気を振り払い

それでも予感が確信に、諦めにと変わっていく心の弱さと

見えない終わりとの対峙をしなければならなかったことから、解放されることの安堵も正直あったのだ。

 

彼はうちにきた時から、なんだか様子が違っていた。

調子を崩してからは、いつものことか?いや違う?と悩んだ。

病院に行き薬を与えてもみるみる弱っていく姿を見て、途方にくれた。

いっそ楽にしてあげた方がと、実は何度も頭をかすめた。

 

せめてやれることは他にないだろうかと、ネットで情報を集めて。

すでに今の薬が出た病院に行く前から、ひとつの病因を予感していた。

今の病院が的外れな診断をしているんじゃないかという疑惑も日に日に濃くなった。

徹底的に調べるにはさらに上の専門の機関しかない。

別の病院の予約を取った。

そこは専門的でとても有名な病院。完全予約制。

車で家から頑張っても1時半はかかる。

本来1ヶ月先まで埋まっているところなのだが、事情を話すと最短で手配してくれた。

 

この日までは頑張ろうね、と言い聞かせていた当日の朝

約束の時間に少し間に合わず、彼はぐったりとしていた。

 

前日はまだ、自分で動いていたのに。

もうだめだろう、と直感した。

 

もしこの状態で病院に行き、病因が分かったとしても、彼には回復する体力すらもう残っていない。

それがなんとなく分かる。

 

力なく横たわる身体を抱き上げると、苦しそうな顔を少しだけ動かそうとして

けれど、できなくて。

目を開け、私を見た。

がんばれ、もうちょっとだから、がんばれ、と、身勝手なことを呟きながら身体を撫でているうちに

かすかに上下していた胸の動きが少しずつゆっくりになり、やがて止まった。

 

薄く開けている目。

涙は出なかった。妙に冷静だった。

 

きれいな顔してるだろ。

ウソみたいだろ。

死んでるんだぜ。

それで。

 

と、某台詞がふと浮かんだ。

 

あきらかに動かない彼をケースに入れて、2時間かけて病院へ連れて行った。

ひょっとしたら、という可能性にかけている、という言い訳を自分にしながら。

待合室では、亡骸を連れてきたことで嫌な顔をされるかもしれないと覚悟していた。

 

先生にもう動かなくなったことを告げると、間に合わないか、と慌てた様子で彼を手に取り

あれこれ触った後、うなだれてそっと、診察台に彼を置いた。

その手に取り方ひとつ、置き方ひとつ。

それで、先生が信頼ができる人だと感じた。

 

病名はおそらく、私が想定していたものだ、ということだった。

 

私は、今までの彼の戦いを先生に告げた。

先生は何度も頷き、丁寧に話を聞いてくれながら、彼に優しく触れ

もう、限界だったんでしょうこんなになるまで、よく頑張ってと、言ってくれた。

 

そうなんです。頑張っていたんです、彼は!

たまらなくなった。

 

前の病院ではちょっと体調を崩してるだけ、みたいな扱いだったけれど、違う。

彼は言葉は話せないけれど、ずっと何かと戦っていた、苦しくても諦めずに、生きようと頑張っていた。

 

私は今までの彼の頑張りを何度も話しながら、そこで彼が息を引き取ってはじめて、涙が出た。

彼の頑張りが、実らなかったことは、すべてその病気のせいだ、と先生が認めてくれていたから。

 

慌ててカバンの中からタオルを取って、涙をこらえて飼育環境を一生懸命話した。

悲しいとかよりもただ悔しかった。

彼はあんなに頑張っていたのに。私は無力だった。

うちにはまだ、他の命がいて、守る責任があり、泣いてはいられない。

多分そうやって無意識に気を張っていたから、涙は出ていなかっただけだと気付いた。

 

先生は、診察番号を言ってもらえれば、これからはすぐに予約できますから

他の子に異変があったら、すぐに連れてきてください。

可哀想でしたが、連れて帰ってあげてくださいとケースにそっと優しく戻してくれた。

 

タオルで顔を覆いながら待合室で待っていると、受付時にはサバサバとしていたスタッフは神妙な顔で診察代は結構です、他の子でも使えるので、診察券をと渡してくれた。

そんなわけには、と告げたが、瞑目して首を左右に振った。

また涙があふれた。何も言えずお辞儀だけして、病院を後にした。

 

初診料や検査料、診察料、かかるのは当たり前なのに。
救急車に死人が乗れないのと同じように、息絶えた彼を連れて行ったことを怒られるかと思っていた。

なんなら割増的な(死因特定料みたいな)ものがあったって仕方ないと思うくらいだったのに。

 

けれど怒られるどころか

初めて見る飼い主の持ってきた、初めて見る小さな亡骸に、慌ててくれて、残念に思ってくれて、私を家族を亡くした遺族として扱い、命に対して最大限の尊重をしてくれた。

(と、少なくとも私は感じた。そのこと自体が最上の敬意に値する姿勢だと思う)

なんて気持ちを汲んでくれる病院なのだろうと今は思う。

 

事情があったにせよ、はじめからここに、と何度も考えても仕方のないことを考えた。

 

帰ってすぐに、彼を埋めた。

間髪入れずに埋めた。

 

この子は、私の、この日まで頑張ろう、の言葉を必死に聞いていてくれたかもしれない。

嫌がりながらも薬を飲み、じっとして体力を温存し、少しでも長く。

今朝まで頑張ってくれたおかげで、私は先生と会うことができて、泣くことができた。

 

ケースから取り出した彼は、いつもの匂いではなかった。

うまく言えないけれど、生き物の匂いではなくなっていた。

体は命の入れ物、とふと前日にソウルメイトと話した言葉を思い出す。

 

無言で土をかけた。

 

疲れたね。

うちの子になってくれて、一緒にいてくれて、ほっこりさせてくれて、頑張ってくれて、いっぱい思い出をくれてありがとう。

救うことができなくて本当にごめんなさい。

 

でも、これからの、夏も、秋も、冬も、みんなで一緒にいたかったなあ。

 

願掛けとして絶っていた、好きな食べ物を食べた。

あんまり美味しくなかった。

 

喪失感、虚無感。ぽっかりと空いた穴を見つめて、ただぼんやりとソファに転がっていた。

 

これもいずれ、雑多な出来事で埋まっていくのだろうとは思う。

 

いつも、どうにもならないことなのも分かっていながら、私はそれでも、何度も諦めずに来た。

 

それは気がつけばもう何年も経っていて、自分の心というよりは、自分の理性のようなものが、「いい加減にどうなの」と言っている。

心自体は疲弊はしているけれど、まだまだ行ける、とは思う。

だけどこのいける、になんの根拠もなく、思いがけずポキッと折れるということも知っている。

 

今はささいなことで心に余裕がなくなって、少しでも何か、頼られることや世間的に保たないといけない外聞だとか。

そういったものが求められる場面でも、ひどく疲れてしまい、とにかく気分が乗らない。

仕事でもなんでも、本当はもっと頑張りたいのに、とにかくギリギリのラインを低空飛行している。

 

ささいなことひとつひとつ

ああ、やらなきゃ、と思っているのに、むしろやりたいと思っているのに、なんだか気が乗らず後回しにしている自分に、本気で嫌気がさす。

 

料理でもして落ち着くかと考える。キッチンが散らかっててイライラしそうなのでやめる。

何もやる気がしなくてゴロンとする。

なんだかすっきりしたい。

夜中無心でトイレ掃除と洗面掃除をする。

少しだけすっきりする。

でも願ってるだけじゃ叶わない。

現実逃避のように目を閉じる。

 

気づいていない落としものも、いろいろとあるのかもしれない。

 

私は自分の精神や考え方がややこしかったり、一定のクセがあることが分かっている。

だからこそ、少しでもイージーモードで攻略したいだけなのだ。

なんでこじらせようとするんだろうなあ。

それじゃなきゃ納得できないって、それも分かるけど、正論すぎるけど、なぜあえて難易度を上げるのか。モンモン。

 

お腹は空いていないのに、胃が空っぽな気がして気持ち悪い。

こういう時は、何かしたくなるまで、何もしないのが一番だ。

だけど、向き合わなきゃいけないものは確かにあるんだよ。

 

とりあえずキッチンを片付けよう。と棚を買った。

 

パンでも焼こうかな。

 

広く浅く愛したいんじゃない。深くひとつを愛したいんだ。

ずしっと重く、宗教のごとく愛したい。

むしろその愛っていうのは、与えすぎて枯渇するような性質のものではなくて、与えるほどにさらに溢れるようなものなのだ。

 

それが叶わないからだろうな。

足りなくなるのは。

厄介にしてるのは自分だよ、だけどこう生きるしかないんだ、と思うことを書いてみる

ふわふわな幸せな気持ちは

忘れたくないなあて思う。

かけがえのないものだから。

 

大事にしたくて、心の奥の方にしまいこむ。

むふふってなる。

 

だけどこの、虚しいような、絶望のような気持ち。

今まで目をそらしていた気持ち。

翻弄されていたもの。

もみ消しても頭で処理しようとしても、支配される闇のようなもの。

 

これこそ、多分本質なのだ。

これも忘れちゃダメだ。浮かれているだけじゃなくて。

幸せとかだけじゃなくて。

 

幸せなだけでいちゃだめだ。

私の立ち位置、立場、現実は色々なものがある。

見て見ぬふりではなくて、ちゃんと受け止めないと。

 

その上で、どう感情を処理するのか。

考えていかないといけない。

覚悟って多分、そういうものなのだと思う。

 

自分っていう生き物を、よく理解しよう。

弱いところ、思考のクセ、苦手なもの。

対処を身につけたら、もう少し楽に息が吸える。

 

やみくもに安定を求めてもキツい。

私はちゃんと、頭の使い方を考えないと。

 

ごまかしてるだけじゃだめだ。多分もうだめなんだ。

 

お気に入りの喫茶店がなくなっていた時のような

あの立ち尽くす感じ

悩んで買うのをやめた気になる商品が跡形もなく売り場から消えていた時のような

手遅れな、がっかりするような、手に入りそうだったものが、途方もなく遠かったと気づく

あの感じ

 

ああゆう気持ちにならないように、私は現実をちゃんと泳ぐ。