花は折りたし梢は高し

とにかくいろいろうまくいかねーなってことを書いていこうと思います。

逆説的なようでよくある話を書いてみる

安定を望む人ほど、それが怖い人もいるし

信じられない人もいる

 

私もそのひとり 多分

今はちがうけれど

 

そういう人はあえて凪いだ水面を波立たせて

荒れた状態がどう収束するのかを

何度も何度も確認する

安定の中に相手からの関心を感じられないから

 

もちろん、無関心が凪を作ることも否めないけど

そんなものなら捨ててしまえ

 

波立たせる

そうせざるを得ないくらいの大きな虚無や

現状に大小問わず何らかの不安や不満があり

それこそを安定への障壁だと感じている

例えば自分の方が負担感が高いと感じている場合とかとか

 

それが投影されたものがアグレッションとして表出する

バシャバシャ

 

それらは意識的に起こされることもあれば

無意識に起こしていることもある

大抵は本人に統制の所在がないからタチが悪い

 

なんでいつもそうなのと周囲は思う

焦って必死に凪を保とうとするか

波立っていることに対し平静を保とうとするかだけど

いずれにしても逆境に置かれることでセルフエスティームは下がっていく

その状況でその実、試されているという側面も強くあり、当然しんどくもなる

 

そもそも安定なんてものは存在しない

人間関係は不安定がデフォルトであって

でも不安定にストレスを感じる

つまり人の心は両価性があるのがフツーであって

 

つまり凪いでいる状態こそ

見えないたゆまぬ思いや願いによって起きている

コツコツと積み上げられたものなのに

それを信じられなかったり

分かっていてももっと盤石な土台を欲していたりすることで

何度も引き起こされる荒波

 

心は変わるものだけどもさ

変わらないものもあるのを知っていても

それが他人の心にもあると信じられない

 

そういう、あるはずの恒常性がなかなか信じられないから波立たせる

それはそれで、たいそう辛いことだ

苦しいことだ

きっと本当は、切実に、そういったものに裏切られてきて、それでも誰よりも信じたいのだから

 

お互いのしんどさの中でいかに凪を取り戻すべく奮闘する様子があるか、が周囲の肝になる

無理に平静を保とうとすると、無関心の烙印を押されかねないし

 

取り合わないとか、見て見ぬ振りとか

信じているしという前提で、鈍感であることとかが

それがいいケースも多いのだろうけど

それが平和に収まるのもわかるけど

そんなの間違った楽観主義と紙一重

不安はなかったことにしたところでなくならない

 

もう一度言うと

人間関係は不安定がデフォルトで

人の心は両価性があるのがフツー

 

と知ってる分、楽することを諦めた分

もっと心の深部へと手を伸ばせる

だから繋がる奇跡を知ることができる

 

渦に一緒に飲み込まれる方が寄り添えると思うし

少なくとも私は静観してるんじゃなくて

同じ目線で一緒になって考えたり悩んだりしたい

 

しかし全員にそんなことしてられないから

どちらにしてもある程度は突き放したりすることも必要だけども

そこをどうするかは相手への関心度やプライオリティの高さ、あとはパーソナリティの違いなのかな

 

何度でも怒ったり悲しんだり傷ついたり、小さな諦めを繰り返しながら

でも、本当の意味で諦めない

もう諦めない

その信念は、すごくすごく大切なものを引き換えに、私が手に入れたもの

あの人に鍛えられたもの

 

困っているあなたがいつのまにか見失っているあなた自身を取り返しに、探しに行くし

何度もダメなことにはダメって言う

少しのコツコツを

今出来ることを誠実に

 

守る味方も、攻めてくる敵も

そのどちらも私は取りこぼさない

どちらもきっとあなただから

 

かつて取りこぼしてしまった分もまるごと抱えていく

よるべなさを持ち寄る、よるについて書いてみる

嘆息の後ふいに落ちた沈黙の中、私は目の前の人をじっと見つめた。

つむじ。

 

あらゆることに対して斜に構えることで傷つくことを回避する、みたいな。

そういうの、思春期かよって思うけれども。

 

一方でそれくらい傷ついたり痛いことに対しての耐性を求められるんだろうね。

些細なことから大きなことまで、理不尽なことはいくらでもあるし。

全部が全部自分の責任の範疇ではないことでも、何か起きてしまえば火消しに走ったり、また新しい何かを生み出さなくてはいけない。

 

涼しい顔してても目の前のつむじは心なしか元気がないし、眼鏡の奥の瞳はよく見ると疲れで濁っている。

この人は毎日きっと色々なものをすり減らしながら働いているのだろうなあ。

隣の椅子に置かれた革のビジネスバッグは、几帳面な持ち主を反映して一見スッキリはしているようだけれども、実はすごく重たいことは知っている。

 

モラトリアムを今更謳歌しているようなゆるい生き方をしている私には、最前線で働いている人たちを俯瞰して見られるようになった。

働いているときは自分の存在意義やら必要性やらを感じるし、やりきった時の達成感もあるし、マクロな意味で自己肯定できる感じがある部分は、働くっていいなあと思う。

仕事っていうのはそれこそタスクの連続で、一言で言えば「結構大変」でもあって、でも「できないこともない」程度のものでもあって、考えてる余裕もないまま日が暮れる。

お金を生み出す分それなりに大変でそりゃ当たり前なのだけども。その精神のすり減らし方、こなし方、向かい合うスタンスは千差万別だなあ、とつくづく感じる。

そういうマインドはどこで培われるものなのだろうか。

 

「ね、仕事忙しいの?」

「んー……それほどでもない。」

キミの言うそれほど、が分からないけれど、まあ精神的にはそこまで追い詰められていない程度、という定義で聞いておくことにして、通知に震えた携帯へチラっと視線を向けた。

 

あれはさ、鞄自体が重いんじゃないのかな。べるるってぃとか?そういうやつ。

アレを抱えて電車に何時間も乗ってたりするんだと想像すると、ヒトゴトながらうへえと辟易してしまう。

ポーターとかTUMIとかのナイロンのやつにすればきっと少しは軽くなるのに。

そこはまあ美学なんだろうし、そもそも物理的な重さだけじゃないのだろう。

 

頬杖をついて、クルクルとストローを弄びながら、少し冷めてしまったリコッタパンケーキをいやに丁寧に切り分けている様子を眺める。

どうやら私にも分けてくれるつもりらしい。

 

案外人によってカトラリーの使い方にクセは出る。特にナイフの持ち方。

こういうものには、お育ち+成人してからの生き方、つまりその人らしさみたいなものが出るのが面白いなあ。

 

とか思っていると、「お前は、相変わらずポテトチップ箸で食うの?」と聞かれ、うん?と返事にならない返事をする。

ほい、とわざわざカトラリーケースの底から取り出したお箸を渡され、「んーパンケーキにお箸は違うかな」とすかさず言うと、ニヤリとキミは笑う。

この人は、こういうちょっとしたいじわるみたいなことが好きだ。

そういうの、ちょっとめんどくさいと正直思う。嫌いではないけれど。

 

何か作業をしている異性を眺めていると、なんだか無心になる。

パソコンに向かう姿、料理をしている姿、本を読んでいる姿、お洗濯物をたたむ姿、シャワーを浴びる姿、あとは工事や剪定、造園の現場、清掃の様子など。

もうずっと眺めていられる。あと、煙は好きではないけれど、タバコを吸っている時の姿を眺めるのも。

男性は基本行動がシングルタスクだから、その分一つにとても集中している気がする。

そのひたむきな感じ、そういったものを眺めている時間は、頭を空っぽにしていられる。

そうしてしばらくぼんやりしていると、我に帰るように、少し心がほっこりしてくる。

この感情の正体は敬意のようなプロジェクトXを見ている時のようなものなのかもしれないし、あるいは何らかのシンパシーなのかもしれない。

 

そんな風に色々な思考がぼんやりと頭を走っている中で、何か声をかけられて「え?」と顔をあげる。

 

「聞いてねーだろ。」

「聞こえなかった。」

「また変なこと考えてたんだろ。」

向けられた非難がましい目に、ヘラっと誤魔化すように笑って「キミは何を達観してるのかなあと考えていたよ。」と返す。

 

こういう自由連想を許してくれる、そして、答えも出ないような愚痴をフンフンってただ聞いて欲しい日もある、と言って連れ出してくれるキミはいい奴だと改めて思っていたよ。

言わないけれど。

 

「んー?達観っていうよりは、テーカンかも。」

テーカン……って、諦めるの、諦観?」

 

ハイ、と頷く仕草が妙に可愛らしかったので、それを真似て私もコックリと頷き返す。

そんなやりとりの応報に、少しだけ空気が和らいだ。

 

諦観って、本来は諦めるって意味ではなくて、あきらかに見るって意味らしいけど。」

「あきらかに?」

「本質を見極める、みたいな感じなのかしら。」

「へえ……響き的に仏教用語っぽいな。」

「ああ、確かにね。……で、どっちなんだい。」

「どうだろう。易きに流れるっていう意味では、色々諦めてるな。」

「いろいろ。」

「はい。色々。」

じっと顔を見つめる。

うん、この表情の時はこの手の話を続けても大丈夫だ。

話題を少し深めてみる。

「具体的には。」

「僕はこのまま一人で死んでいくんだろうなーとか、最近すごい思う。」

孤独死が怖いってこと?」

いくつかの仮説を頭の中で描く。その中で一番軽い内容を提示してみる。

この場で一番重いものは「自殺念慮」であるが、それはまた別の話。

 

「心の交流ってこと。僕は誰かと生きられるだけの誠意の持ち合わせがないから、彼女も嫁もいらない。」

恋愛のトラウマ話みたいなのは、今ちょっとキツイわーな私は、少しだけ心の防衛を強めながら、努めて第三者的に続ける。

「私が思うに、キミはそれなりに誠実な人間だし。だから私もこうしているんだし。何よりも人を上手に騙す術も持っているではないか。」

「ちがう、お前みたいにはなれない。」

パンケーキの上のメープルシロップが、とろりとお皿に溢れる。

一拍おいてから、「なんだそりゃ。」と呟いて、言葉の真意について考える時間を稼ぐ。

「それはキミが周りの期待に応えようとしすぎなんじゃないか?」

「いや、お前みたいに、困ってる人いたらほっとけない、心にスルっと入り込む、みたいな気質がそもそもない。」

「それは個性みたいなものだし。」

「母性じゃなくて?お前は昔からそんなで、だからマザコンから強烈にもてるし。対して僕には父性のようなものがない。」

「そこでいう父性っていうものは?」

「誰かを守りたいとか、幸せにしたいとか、そういうやつ。」

ゆるふわ系女子からモテるキミだから、そういうのお腹いっぱいなのかねえ。

「別に守ってよ幸せにしてよって他力本願なお嬢さんばかりではなかろうが。」

「お前は一緒に考えようって言うタイプだよな。でも、オカーサンなのに末っ子気質だから破綻するんだけど。」

「まあ私の話はいいよ。……キミの言う父性がなきゃ誰かといられないってこと?」

「あまりにも自立されててもそれはそれで満たされないし、かといって依存されてもめんどくさいし。」

 

そうやって斜に構えて、それで何を守ろうっていうんだい。

自分か。

自分だな。

うん。

分かるけどもさ。

 

そんな弱ったハリネズミみたいになりながら、リスクヘッジよろしくいろんなところにいろんな役割求めて演じて分散して。

孤独から逃げるように思考停止する必要があるくらい、キミの心は本当に打たれ弱いのですか。

キミを取り巻く世界は、そんなにツンツンしているのですか。

その部分を弱い部分を結局支えたり支えてもらうことを諦めてしまうのは、柔らかい部分をさらけ出すことが怖いからですか。

他人だけではなく、自分のことも信じられないのですか。

 

なんだか妙に悲しくなってきたな。

キミの世界の一員として、私は何ができるのだろう。

こんなに一見社会的に適応していて、そこそこの地位にいる人でも、その実、空虚や痛みから逃げようと必死なのだ。

そして痛みを当たり前のもののように、なんてことない顔で飲み込んでもいるのだ。

その分救われない思いをしたり、絶望に落っこちたことがあるのだろう。

 

「キミは閉塞感がすごいね。」

苦々しい思いと、うまい言葉が出てこないもどかしさ。

 

沈黙。

 

「あやかってる僕が言うのもアレだけど、お前のそういうとこ、どうかとは思う。」

変な顔をしていたのだろう私を思考の流れから呼び戻した上目遣いと、はたと目があう。

ひょいっと眼鏡を押し上げる仕草に隠れた表情。

私は首をかしげる

「そういうところ?」

あえて言語化してもらうように問うが、しかしそれは鼻で笑われるだけだった。

それでも続きを待つ私の視線に観念したのか、「お前は」と、言いかけて、少しメンドくさそうに一度コーヒーを口に含む。

しばらく言葉を探すように私の背後に視線を向けてから、スッと私を見据えて続ける。

性善説の申し子で、おせっかいで、勝手に裏切られて、いつも難しいことばっかり考えてるところ。」

言い終わるタイミングでバサッと角2封筒で頭を叩かれる。

ちっとも痛くないけれど、「あいた」と口に出して、頭を抱える動作をする。

 

「まあ、私に侵入的な部分があるという点では、突き詰めれば私のエゴだよ。」

「だから、そういうところ。受容的な部分が行きすぎて、もはや自己犠牲だって言ってるの。」

 

と、浮気されたことを理由に別れた元カレの名前を呟く。しかもフルネーム。よく覚えてるねキミ。

 

「まあ、少なくとも、あなたがそうやって言ってくれていることで、救われている……よ?」

紙ナプキンで作った折り鶴に、足を生やしてぴょこぴょこと動かしながら言うと、ぷはっと盛大に吹き出して、「気持ち悪ッ」と破顔した。

「こんな世知辛い世の中だからこそ、培われるレジリエンスですよ。」

私は今日一番のドヤ顔で言ってやったが、彼は鶴のビジュアルのシュールさを味わって全然聞いていない。

 

まあ、それでいい。笑って今日が終わるのならば何よりだ。

また明日も、誰かのこんな笑顔に会えたらいいなと感じるような、そんな日になって良かったと心から思う。

  

「もう10月だなー。」と、キミが歌うように言った。

考えることは避けるべきことなのだろうか考えすぎていることを書いてみる

多面性だとか、極端に言えば解離性だとか

言葉ではあっさりしたものだけども。

そもそも誰もが人に見せてる部分はそれなりに使い分けるのは当たり前であって

故意に隠したりアピールしたりなんていうのは日常の出来事だと思う。

 

全部をさらけ出すことが美徳だなんてことは全くないと思うし

隠すことが息苦しく無理をしていることなんてこともない。

見せたくないその裏を見られることは苦痛でしかない。

本当の自分を見せてくれと言われたところで、実際はそんなものどこにもいないのだ。

 

さらけ出せる安寧のようなものは確かに存在するとは思う。

隠したり使い分けたりすることは、実際心にとっては負担であり労力でもあるのだ。

それらをつまびらかにすることは、怖いことでもあり、一種の快感でもある。

私は他の人のそんな秘め事を、秘密の共有は信頼の証である、という大義名分と共に受け取る。

 

一緒に考えようか、生きづらさの根本を。

そのことで、あなたは楽にできるのかな。

私以外の誰かにそれを明かす日までは、と思いながら心の引き出しにしまう。

 

きっと渡した人は忘れてしまっているのだろう数々のものを、預かっていることに気がつく。

持ち主は元気だろうか。

私は上手に圧縮しているから、あなたは解凍キーを持っておくといい。

一生使うことがなかったとしても。

あるいは、今更だとしても。

 

あなたはこういう人だよね、と決めつけられることで

妙にすとんと心に落ちて、なんだかホッとできるときもあれば

はあ?と反発心しか生まれないときも、ままある。

 

人っていうのは心理テストだとか占いだとかにどこかワクワクしたり注目するってことは、

やっぱり自分のことを自分ではよくわかっていないのだろう。

そのくせ「当たってる」だの、「なんか違う」だのと決めつける。

ということは、欲しい答えがあるのだ。

とはいえ、きっと誰しもがほとんどの人に見せることがないと自覚をしている自分というものはいる。

この人にだけは見せられるという、露出の少ない部分。そういった確かで不確かな何か。

パーソナリティのようなもの。自身のコアな部分。

それらひとつひとつに個々の人格があるのだとしたら、人は本当にとてつもない量のパーソナリティを持っていることになる。

それこそスプリットしているものではなくて、スペクトラムなのか。

 

10年近く物理的に一番側にいる他人であり家族であるあの人は、私にそれほど興味がない。

んなことないと否定するだろうけど、それを一番私が知っているのだから、仕方ない。

他者に多くを求めない代わりに、失望することもない。

これ以上求められても困るし、うっとおしいし、だからこそなんとかやって来れているのだろう。

自分にも何も課していないから、私に何かを課すこともしない。

思い込みのバイアスはすごいけれど、根本的には人を悪く言わないところは敬愛している。

飾らないし、どう思われるかを気にしないから多面性もない。

私に全てを見せている、ように見せている。

これがあざとさのようなスキルであるなら素晴らしい。

あなたでいいよ、そのままでいいよ、という全力の肯定をもらっていてもなお、一方で時折それがひどく愛しくも悲しく、虚無感が漂う。

 

私とは違う人間とつくづく感じる。

その穴みたいなもののは、私の救いであり、苦しみだ。

人は変わるのだと思う。

正確には、変わらない部分と、変わる部分がある。

私がそう変えてしまったのだとも。

 

その前にしゃがみこんでは、私は嘆息している。

青い空は途方もなく広がっているし、それを憂いていても、しばらくすれば月が頭上にのぼることも知っている。

考えすぎだ、と言われたところでそうしようもない。

 

おそらく無数に言われてきているし、わかりきっているから、あまり人に見せないようにするのだ。

自分の中身。考えていること。

多面的を使い分けて今日も人はおのおのの心を黙殺して笑う。そうやってみんな生きている。

私たちはいきにくさを抱えた考える生き物たちであり、だけども、だからこそ、他人の不器用さを抱きしめるように愛することもできると信じている。

 

「考えすぎだよ、難しいことじゃないくて、シンプルなことなんだ。」

って、言われなくても分かるしとっくに知っている。知っていてできないこともある。

ほっほーう、なるほどね、知らなかったよ!

これからは、考えないようにしてみるね!!

 

なんてなると思うか?

なるはずねー。

あれこれ考えて頭の中で出来上がった設計図が「それ」なんだから。

 

その設計図、違うよっていうなら、こうだよってシンプルな設計図をちゃんと確認しないと納得できない。

至るプロセスを、構成しているエレメントを見て、見落としている大切な何かはないか、納得したい。

見なきゃできない。

 

だって「考えすぎだよ」なんて浅はかなこと言う人の設計図だよ?

自分のよりも綿密だとは思えなくない?

そもそも、その考えるプロセスってのも大事な訳だよ。

ここに答えがありますけど?

ってそういうことじゃない。

答えを決めるのは各々の心であり、価値観なのだ。

 

そうやって、どっかで腹落ちするまでは考えてしまう。

しないときも多いから、そう言う時は諦めるけれど、諦められるまでは考えてしまう。

 

考えすぎだよって言葉は、極論、死なないのに何で悩んでるの?いいじゃんって言う感じ。

いやいや、投げっぱなしすぎるでしょう。

全部が全部、そう言う問題じゃないでしょう。

死なないためだけに生きてるわけじゃないでしょう。

誰かを愛したり愛されたりして生きたいって、普通のことでしょう。

突き詰めてみればごくプリミティブな感情であって。

 

でもまあ、「命までは取られるわけでなし」という言葉に救われたことがある。

そして私も「それは考えすぎだよ」と誰かに言ったこともある。

矛盾してるなあ。

 

そもそもこの矛盾というのはこうやってインターネッツの片隅で感情を吐露している不毛な人間であることを、

良しとしている訳じゃないけどそれが自分でもあって、開き直ってる訳でもない葛藤はあるそういうものであって。

そんなの他人に指摘されたくもないから、私も笑う。

 

どうしようもないことって分かってるのに考えちゃうよね。分かるよって。

それがあなたよねって。

そういうあなたが愛おしいんだよって。

苦笑いしながら言ってくれたあの人は、心の中のいつもの席にもういないのだけども。

妙にすとんと心に落ちて、なんだかホッとして、救われた感覚に瞑目したあの時に戻れるわけではないし、

それを憂いているだけではないのだけども、それでもこんな日はあなたがいてくれたらと願う。

こういう時、胸が締め付けられる私の痛みはいつまで続くのだろう。

 

今日も私は空を見上げる。平成最後の夏も終わる。

今年は突き抜けて暑くて、考える気にもならないところが悪くなかったけども。

いい加減な自分を、そろそろなんとか考えなくてはいけない。

空は繋がっているのだといつも思うことについて書いてみる

あーもう、うまくいかん。


慣れない匂いの、慣れない部屋の中、ちっとも眠れぬまま声を殺して泣いては泣き止んで、又涙が出てきて、途方に暮れた目で窓から見上げた空の飛行機雲。

なんででもどうしてだってなんで。

繰り返し聞いたあの曲。

 

そんな当時のことを思い出しながら見上げた空。

あの頃の私はそれなりの痛みを知っていながらも、これほどまでにねじれていく感情を知らなかった。

実は話は終わっていなくて、あのときよりも更にこじれてもつれて何度も途方に暮れて。

何年も拮抗した感情に振り回された結果、私は強くなったしその分大胆にも臆病にもなったのだなあと今となってはしみじみ思う。

 

空を何度も、痛みと甘さを伴って飛んだ数年のことを、数ヶ月かけてなんとかねじ伏せても、結局変われたのかどうかは当の本人にも分かってないのが事実であって。

多分、どこかで思考停止していないと受け流せなかったものを、少しずつ咀嚼している日々。

あくまで理念とか信念とかそういったものは、どれだけグルグル巻きに守っても、あっさりと破られたりもするのだろうし、それを自分ができなくても、誰かには容易くできたりもするのだろう。

 

正解は分からないけれど、私はまた自分と対峙する。

散々傷つけたあなたと、傷ついた自分とが、代わる代わるによぎってはまたたち消える。

 

欲しいと思っている出口も、答えも、多分どこにもないのだ。

うっすらと分かっていたことを圧倒的なまでに知らしめられる現実について、寝不足の頭で何やらうつらうつらと考えていたら、そのうち眠っていた。

物理的には必須ではないもの、明確な目的や情動の類のものに、あれほどまでにこだわっていたことを愚かだとは思っても、間違ってはいなかったと今も信じたい。

どうしていつもその余波を予測できないんだろうなあ。
ぴょんと飛び越えてきたあの人のあの時の姿を思い出して、同時に失った何かであることを自覚する。

私は、いい加減で誠実ではないけれど、それをよしとはしないし、自己肯定もしない。

自ら進んで行ったことではないとか、そういう言い訳もしない。

私は見えない何かや誰かをも傷つけているのだろうし、裏切っているのだろうから、弁解もしない。

失う代わりに何か新しいものを築けるのかなんて期待を、身勝手に押しつけもしない。

そして、だから許されるとは少しも思っていないし、そんな風に逃げないし、簡単には謝らない。

乱れる感情も呼吸も、ありのままに見据えていく。

 

空はあの日と変わらず、あの人と私の上にあるし、私もあの日の延長にいる。
それは誰にも奪われない。

誰かと生きるって車に一緒に乗るようなものなのかなと思うことを書いてみる

これはよく言われることだが、車の運転にはそのドライバーの性格がよくあらわれると、確かに思う。

 

私は公私問わず男性の助手席が多いわけですが

(同行者が女性の場合は大抵が運転手になるので)

なるほど、慎重だったりせっかちだったり。

あとは、正確性や優しさや強引さ。

ブレーキの早さとか、カーブの曲がり方とか

MT車なら低速ギアをどこまでひっぱるかとか。

 

別に一発で駐車できるのがいいとか、そういうのは意識にないけれど。

なんだかんだと結果的に

ドラテク。フゥーッ↑

と、感じる男性はいる。

 

そういう人はえっちも上手い気がする。

あと、クラッチやらをガンガン踏む人はえっちも乱暴な気がする。

 

車も女性も所詮暴れ馬みたいなものだから、まぁどう乗りこなすかという点で共通なのでしょうか

車コロコロ変える人って彼女もって聞いたことあるような、ないような。

 

主導権がドライバーにあるようでいて、案外と乗せられてるというか、乗ってる時は車のポテンシャル頼みだったり。

でもそのポテンシャルをどう活かすかとかはドライバーの腕や意識次第で。

車を独りよがりにただの乗り物と見るか、車と過ごす時間を楽しむものと見るか。

 

そういう空気やムードの作り方も似たような部分がある。

おや、似てるなやっぱり。

 

そして、運転もせっくすも、メリハリが大事だと思う。

メリハリ。キビキビしたり、ゆったりしたり。

余裕があったりなかったり。

メリメリだけや、ハリハリだけじゃすぐお腹いっぱいになってしまうか飽きてしまう。

 

と、そんなことひっくるめても、私はあの人の助手席がすきだった。

あの人はそういうメリハリにとても長けていて、私はそれにいつも惚れ惚れしていた。

 

車の中、お互いに前を向いているからか、私たちはとにかくよく話をした気がする。

 

大事な話もそうでもない話も、思い出せば車の中ではたくさんの言葉を交わした。

ちらっちらっと盗み見るあの人の横顔、その視線に気づいて口角を上げる表情になんだか胸がキュンとして、ニヤけながら胸に抱いたカバンをぎゅっとして、正面に視線を戻す。

そして鼻歌に合わせて左右に揺れながら思う。

 

このままずっと道が続けばいいのに。

 

多分あの人も、そう思ってくれていたのではなかろうか。

 

焦燥。

もう帰らなくちゃ。

 

運転中のよそ行き顔に、少し距離を感じてまた視線を向けると、あの人は真顔のまま左手を私の右手に重ねる。

 

って、MT車なのに大丈夫?

いや、器用な人は上手いことなんとかするもので。

シフトを変える時だけ手を離して、また私の手のひらに戻ってくる。

おかえり、と私はその度につぶやく。

 

クラッチを踏んでギアを変えるその感じが、丁寧でとてもすき。

空気の動きや一連の仕草も、まるで歯ブラシに歯磨き粉でもつけるかのように慣れていて自然。

見せつけるような押し付けがましさなくて、手際が良くて小気味よくて、純粋にすごいなあと思う。

 

でも、ぬくもりが一瞬離れる寂しさはある。

そうか、AT車だったら、ずっと繋いでいられたんだなあ。

 

しばらくすると、私の手をそっとシフトに添えて、手のひらに包んだそのまま、軽く押してギアを変える。

なるほど、これなら手は離れない。

 

私の感情の揺れに気づいたのだろうか。

あるいは。

 

うむ、と満足げに頷きつつも、どこか照れている私に、あの人は少し眉をあげる。

 

そんな時間のことを思い返すと、今も私はニヤニヤと切なくなる。

 

稀に、私が運転をし、あの人を助手席に乗せることもあった。

走り慣れない道。私は手を繋ぐ余裕どころか、運転自体余裕なんてなくて、いつも前傾姿勢になっている様子に、目を細めながら、あの人は楽しげにしている。

きっとあの人はあの人なりの何かを感じていたのかな。

 

あーだこーだと運転に口を出すことなく(助手席で文句を言うのはご法度ですぞ)

さりげなくアシストしてくれるところも良かった。

 

あの人は本当に優しい人だった。

私の良くないところに対して、諭すことがとても上手だし、褒めて伸ばしてくれる人だった。

だから私はいつものびのびとしていられたんだなあ、と今だから分かる。

 

一つの乗り物に二人で乗っている、あの小さい空間は、心地よい液体に満たされているようだった。

どこ行こっかもなに食べよっかもなにも決まらなくても、それでもただ幸せだった。

結局全部あの人がなんとかしてくれる。私はいつもそれに甘えていた。

のを、情けなくも思う。

 

たまに「分かってよ!」とお互いで言い争うような時も、私の話をきちんと聞いて、考えてくれていた。その上で自分の気持ちを、思慮深く話してくれた。

それが結局迎合できたかどうかは別として。

 

ああやって一緒に時間を過ごしていく、その延長がつまり、多分誰かと生きることそのものだと思う。

 

私たちはそういう意味では、同じ車に乗ることができていたのでしょうか。

そこにあるものは幸せと相反する絶望だったのかな。

アンビバレンスというか、どちらかといえば諸刃の剣。

あなたは私の強みの源であり、最大の弱みでもあった。

 

バイクに乗りながら、私はそんなことを考えている。

バイクは本当に素敵な乗り物で、1人でも孤独感はない。

ギアを蹴り上げて、速度が安定したところでクラッチから手を離し、BGMに合わせて相棒のタンクを指で弾く。

湿気を含んだ夏の匂い。

 

あの時私たちは降って湧いたような何かにすがるのではなくて、手繰り寄せ続けていた。

手放してしまったら、もう掴めないことを知っていた。

らしくもなく不慣れなことに試行錯誤をして、とにかく頑張っていた。

その力が拮抗して前にも後ろにも勧めなかったり、結局どこにもいけなかったりするのだけど。

どっちかがもっと強引か、あるいはこんなに力まなければ、違ったのだと思うけども。

 

せめて、その部分だけは誇ってもいいのではないでしょうか。

結果とかだけじゃなくて。

 

誰かを愛したり、何かを紡ぐことになったとしても、あなたや、あなたの空気がほんとに大好きで、居心地が良かった。

これからも私たちは生きていく。

 

同じ車には乗れなかったとしても、あなたがくれたあの左手は本物だったと今も思う。

セックスレスで風俗に行くことになりそうな経緯を書いてみる

とあるレストランに私たちはいた。

 

そこそこの高級店であるため、席と席の間隔はかなりゆったりとしており、

お隣の席の会話はまったく聞こえない。

周りでは結婚記念日やお誕生日をお祝いするデザートプレートや

サプライズグリーティングが催されている。

はじける笑顔、溢れる多幸感。

 

私は場違い感を覚えつつ、壁際のソファに座り、炭酸水をなめていた。

そしてせめて何か会話をしようと思い、向かいの相方に「どうなさいますか、これから。」と声をかけた。

 

前菜を食べ終わり、ぼんやりしているこの人は、ファ!?と顔をあげ首を傾げた。

パチパチっと、まばたき。

「え?これからっていうのは?」

「これからは、まあ、これからですよ。」

私はじっと見つめたまま突き放した。

 

正直、話題はなんでもいいのだ。

食事が終わったらどこにいくか、何線で帰るか、でもいい。

デザートの飲み物はコーヒーか紅茶か、アルコールにするか、でもいい。

生活についてのあれこれにいたっては、先送りにしたりペンディングにしている案件は些細なことから深刻なことまでいくらでもある。

この人が今ひらめいた内容について、議論しようと思っていた。

一番最初に浮かんだものの深刻度が一番高いのかなと感じたからだ。

それくらい、本当にたくさん話し合わなければならないことがある。

そしてこの人はいつも、私に考えることを押し付けて来る。話にならない。

だから、ちょっとは自主性を持って考えて欲しいのだ。

 

レスのこと?」

 

この人が真顔で投げてきたトンデモ砲に、今度は私が内心ファ!?と不意をつかれたものの。

どんな話題が来ようがそうしようと決めていた通り、顔には出さず努めて冷静に、コクリと頷いた。

 

この話題はもう100回くらい話してきただろうか。

話をしてどうにかなるような問題でもない。

でも、これはある程度の通過儀礼なのだろう、と思う。

101回目のセックスレス談義。

もうすぐ絶賛満ウン年。

子供の年齢で言うならそろそろランドセルを買う頃でしょうか。

 

私は内心の予想外の球に対する焦りを落ち着かせながら、いくつかの提案をした。

例えば離婚、外部補完、関係修復に向けたサムシング。

ただし最後のものは可能性はほぼゼロ。


結論は出ないであろうことも分かっていた。

 

もう何度言ったかわからない言葉のやり取り。

感情の上のあたりをふわふわと行ったり来たり。

建設的じゃないな、と思いながらも、デジャブを感じる応報を重ねていた。

 

ただし、今日のこの人は一味違っていた。

そりゃそうだ。

そもそもいきなりトンデモ砲である。

何か感づかれたか。後ろ暗さに少し警戒心がもたげる。

 

「最近のヨメ(仮)は、一緒にご飯を食べていてもどこか深刻な顔をしている。」

私よりも深刻な顔で、この人がつぶやく。

そうか、と私は伏せ目がちに続きを促す。

何か感づかれたかな。探られて痛い腹しかない私は、神妙な表情をして次の言葉を待った。

 

沈黙。

 

「まあ、女の人は30後半くらいから性欲がすごくなるっていうしね。」

 

沈黙。

 

「俺、性欲ないからさ……………。」

 

全私が、震えた。

 

…あーーーーー……………

…………そういうとこだろっつの!!!!!!

 

静かにグラスを手に取り、また炭酸水をひとなめ。

大きな嘆息で感情の渦を受け流す。

小さく発泡している水の様子を眺めて、頭の中で10数える。


私のせいか?


そもそものレスの原因も、言いようによっては私が貪欲だった、と捉えられなくもない。確かに。

 

「キミは……………ぶっちゃけ、どれくらいやっているのかね。その。」

 

落ち着きを取り戻した後、淡々とした口調で反撃のように配偶者のオナニーの頻度を聞く。

ないっていうなら、まぁ聞いてやろーじゃないかい。

おう?コラ。iPadでえっくすびでおずばっか見てんのしってんだかんな。DMM?まぁどっちでもいいけど。

 

……へ?」

…………だから、週に何回とか……。」

「最近は全然やってない。」

「頻度だよ。」

「あー………月に1回?」

「は?それもう腐ってない?(鮮度的なもの)」

「いやいや、2回かな、多くて3~4回。週1はない。」

 

俺、性欲ないからさ……………

 

全私が、震えた。

 

私がとにかく盛っていてやりたがってるみたいなこの図式はなんだ。

 

まあいい。

そういうテイのが分かりやすいなら、それでいい。

細かなニュアンスが伝わるとも思えないし、これはすべて、これだけの時間をかけて積み上げてきたカルマなんだから。

 

「俺がガンバリマ……」と言いかけたところで被せ気味に「ムリ無理むり」と切り捨てる。

その話はもう101回してきているだろうが。

また私に僕チンへのご奉仕をした上で、自分の受け入れ準備も自主的になにもかもやって頑張れと?

 

「私のワガママボディは、使い道のない不良債権デスネ。」

 

腐ってんのはお互い様、と鼻で笑って話を切り上げた。

……つもりだった。

 

ところが終わっていなかった。

 

……そしたらアレしかないのか、と。俺も腹をくくる時が……。」

フーウ。何か出てきたな。妙なドヤ顔。この顔の時はロクなこと言わない。

……アレとは?」

警戒しながらも、心を強く持ちながら聞き返した。

 

「そりゃあ、ふうぞ……。」

最後のく、は口の形だけで、声として発せられることはなかった。

 

……風俗。

 

私も同じように声に出さず唇だけで形どってから、食べていたデザートのスプーンをひとなめした。

 

ブッ。と、吹き出す相方。

その仕草とタイミングが妙にツボに入ったらしい。

 

……ただし、俺が調べるから。プロだけな!」

なんだか使命感に燃えている様子に、思わず頷いていた。

確かに最近、野郎友達と女性向け風俗の話をしていたのを、この人は聞いてはいた。

外部補完って、そっち????

トンデモはどこまでいくのだろう。


いやいや、問題はレスに至る経緯であってだな。

私のリビドーが処理されればどうなったわけじゃ…


圧倒的虚無感。あかん、フロマージュの味がしない。

お隣では素敵な夫婦がアハハウフフしながら写真を撮り合っている。
その向かい側ではカップルが結婚式の打ち合わせをしている。
私たちは先ほどからセックス(レス)の話ばかりしている。
軽いめまい。


まぁ多少の譲歩と見るべきか。

それとも。


帰るか、と近くの店員さんに声をかける。

いつも空振りする私の思い。

私の中の女は、行き場がない。割り切るしかない。

 だから話したくなかったんだ、こんなの。思い知るだけだ。

ご都合主義を。


帰宅してから、スマホを睨んでいる相方を前に改めて。

「え?ワタクシホントに風俗行くの???」


行きたいのか、行きたくないのか、自分でも複雑な気持ちである。
乗り気じゃない感じを出したくもないけど、強いてノリノリでもないのだが。
いやだからさ、もてあましてんのは盛りついたBBAのリビドーではないくて……

「人生は一度きりだから。な?」


達観した様子のこの人は、遠い目をして私を諭す。


「俺としては、最愛のヨメ子だし。うん。」

 

え、えーと。


とりあえず。

まず安全そうなところで、清潔そうであんまりイケメンじゃないところのリサーチをオーダーしておいた。

メガネの年上がよいと添えて。ニヤニヤしながら。


女性向けって店舗型はあまりないそうで、ホテルとかなんだそうだ。

ふむ。
とりあえず口コミとか読めばいいのかな。


って、あーちがうんだソウイウコトシタインジャナインダヨー。

唯一無二のパートナーであるなら、向かい合ってくれよもっとちゃんと愛してくれよ努力してくれよってって部分で。

できないっつーなら行き場のない私の虚無はどこにいけばいいのかと。

他の人好きになっちゃっても知らないぞっていう。

101回ゆっても伝わらないものもある。


まあいいか。 割り切れば割と楽になる。


俺に男としての魅力がないから悪いんだよな…とか。

テクがどーのこーのとか。

いやいやいやいや、そもそもそれ、あったのかね。元々。

そんなんゆうたら悪いのは、あんたの僕チンが自主的にエレクトしない私のせくしー不足ってことになるじゃねーか。


ぽつんと相方が

「え?俺、ひょっとして一生ヨメさんとそういうことできないの?」と呟いた。

は???なんだと思ってたの?


「まぁいつかはなくなるものでしょ。遅かれ早かれ。あなたもふーぞくいきますか?」

私はニヤっとして呟いた。顔は見ないようにした。


どこかこの人は、まだ頑張れば俺もいけると思ってるんだよな。

そんなのを実行するには、結局は私が諦めて折れるしかないことに気づいてない。

なんならヨメ子が拒否ってっから仕方ないわーって。

俺はやりたいんだよ?みたいになってる。

どれだけうやむやにしてくれば気がすむのだ。


多分どっちかだけのせいじゃない。

私のせいなのもわかってる。

っていうかむしろ、当事者に不満をぶつけられるだけ恵まれているとも言えるのだ。

きっと世の中には言えずにさらに苦しんでいる人もいるだろう。

結局私はキミのせいにしてばかりだな。

どうにもできないことなのに。


よーし!いこーぜふうぞく。いっちゃおうぜ。

頭空っぽにして楽しむよ。オウイエ。


……ところでこのお金って家計費から出していいのか。

衛生費??と、そればかりが気になっている私。いや、お金大事だよ。

お小遣いからなら、話は別だ。

高度経済成長やバブルを知らないけど知っている過渡期について書いてみる

Appleとの付き合いはそこそこ長くなってきた。

私の人生の半分以上はApple商品がいる。

 

それまでの私の愛機は父の部屋のデスクトップで、確かPC98。

MS-DOSから強引にWindowsを乗せて乗せて乗せて。

Windows98が悲鳴を上げるように動いていた。

そもそもスカジーでしたよ。スカジーって。

USBっていうのに憧れてましたとも。今やタイプCとか。

 

11時過ぎから夜な夜なICQの「カコー」が響き渡る中

激打で磨き上げたブラインドタッチを煌めかせ、キリ番ゲットだの、BBSだの、

花束片手にメールをを持ってやってきたペットをあの手この手でもてなすだの、

ReadMe!JAPANの更新や2ちゃんねるを斜め読みし、

コソコソ孤独に盛り上がっていた。

今日は何やっても繋がらないとか、重くて安定しないとか。

プロバイダーも色々だったなあ…

 

そんな中、初めて買ったのはクラムシェル型iBookSEG3。

今から18年くらい前の話だ。甘食AirMac)も導入した。

そういえば当時、FireWireなる規格もあった。速度速いアレ。

IEEE1394。どこいったあれ。完全に見かけないな。Thunderboltもアレだけど。

 

そして、それまでピーヒョロロロロローだった我が家のネット環境が激変した。

なんと、自分の部屋で、ベッドの中で、ネットができてしまうわけだ!!

これが良かったのか悪かったのか…。

 

その後、iBook白のやつ、PowerBookG4、PowerMacG4・G5

iMacIntel)、Mac Pro、そして現在のMacBook Pro

公私問わず様々な子を相棒にしてきたけれど、クラムシェルは特に印象深い。

今考えればあんなムチャなあの手この手の使い方しても

よくG3のスペックで耐えてくれていたと思う。

あんなにワクワクする「おもちゃ」には、なかなか出会えそうもない。

 

私たちはロストジェネレーションだし、高度経済成長やバブルを

身をもってしらないのだけれども、ファミリーコンピューターディスクシステム

ゲームボーイでプレステとセガサターンどっち派だよドラクエ発売日ヤベーよっていう

そうやってみんなで共有出来る過渡期が、確かにあったことを思い出す。

使徒、襲来。

 

携帯もこの間様々な展開をするわけですが、それはまた別のお話。

 

私もデバイスも、できることがずっと増えて、便利で自由になった。

けれどあの頃の方がきっと、勢いもアイディアもやる気も可能性もずっとあった。

今の使い方でMacBook Proにパワー不足を感じないのは、マシンスペックや

ソフトの問題ではなく、私がそれほどどでかいものをしてないからで、

それはそれでつまらないことだ。

 

つまらない大人にだけはなりたくないと、あの頃の私は思っていた。

今の私は何も成しえてないのかしらね。ねえ、あなたはどう思うの。