花は折りたし梢は高し

とにかくいろいろうまくいかねーなってことを書いていこうと思います。

考えることは避けるべきことなのだろうか考えすぎていることを書いてみる

多面性だとか、極端に言えば解離性だとか

言葉ではあっさりしたものだけども。

そもそも誰もが人に見せてる部分はそれなりに使い分けるのは当たり前であって

故意に隠したりアピールしたりなんていうのは日常の出来事だと思う。

 

全部をさらけ出すことが美徳だなんてことは全くないと思うし

隠すことが息苦しく無理をしていることなんてこともない。

見せたくないその裏を見られることは苦痛でしかない。

本当の自分を見せてくれと言われたところで、実際はそんなものどこにもいないのだ。

 

さらけ出せる安寧のようなものは確かに存在するとは思う。

隠したり使い分けたりすることは、実際心にとっては負担であり労力でもあるのだ。

それらをつまびらかにすることは、怖いことでもあり、一種の快感でもある。

私は他の人のそんな秘め事を、秘密の共有は信頼の証である、という大義名分と共に受け取る。

 

一緒に考えようか、生きづらさの根本を。

そのことで、あなたは楽にできるのかな。

私以外の誰かにそれを明かす日までは、と思いながら心の引き出しにしまう。

 

きっと渡した人は忘れてしまっているのだろう数々のものを、預かっていることに気がつく。

持ち主は元気だろうか。

私は上手に圧縮しているから、あなたは解凍キーを持っておくといい。

一生使うことがなかったとしても。

あるいは、今更だとしても。

 

あなたはこういう人だよね、と決めつけられることで

妙にすとんと心に落ちて、なんだかホッとできるときもあれば

はあ?と反発心しか生まれないときも、ままある。

 

人っていうのは心理テストだとか占いだとかにどこかワクワクしたり注目するってことは、

やっぱり自分のことを自分ではよくわかっていないのだろう。

そのくせ「当たってる」だの、「なんか違う」だのと決めつける。

ということは、欲しい答えがあるのだ。

とはいえ、きっと誰しもがほとんどの人に見せることがないと自覚をしている自分というものはいる。

この人にだけは見せられるという、露出の少ない部分。そういった確かで不確かな何か。

パーソナリティのようなもの。自身のコアな部分。

それらひとつひとつに個々の人格があるのだとしたら、人は本当にとてつもない量のパーソナリティを持っていることになる。

それこそスプリットしているものではなくて、スペクトラムなのか。

 

10年近く物理的に一番側にいる他人であり家族であるあの人は、私にそれほど興味がない。

んなことないと否定するだろうけど、それを一番私が知っているのだから、仕方ない。

他者に多くを求めない代わりに、失望することもない。

これ以上求められても困るし、うっとおしいし、だからこそなんとかやって来れているのだろう。

自分にも何も課していないから、私に何かを課すこともしない。

思い込みのバイアスはすごいけれど、根本的には人を悪く言わないところは敬愛している。

飾らないし、どう思われるかを気にしないから多面性もない。

私に全てを見せている、ように見せている。

これがあざとさのようなスキルであるなら素晴らしい。

あなたでいいよ、そのままでいいよ、という全力の肯定をもらっていてもなお、一方で時折それがひどく愛しくも悲しく、虚無感が漂う。

 

私とは違う人間とつくづく感じる。

その穴みたいなもののは、私の救いであり、苦しみだ。

人は変わるのだと思う。

正確には、変わらない部分と、変わる部分がある。

私がそう変えてしまったのだとも。

 

その前にしゃがみこんでは、私は嘆息している。

青い空は途方もなく広がっているし、それを憂いていても、しばらくすれば月が頭上にのぼることも知っている。

考えすぎだ、と言われたところでそうしようもない。

 

おそらく無数に言われてきているし、わかりきっているから、あまり人に見せないようにするのだ。

自分の中身。考えていること。

多面的を使い分けて今日も人はおのおのの心を黙殺して笑う。そうやってみんな生きている。

私たちはいきにくさを抱えた考える生き物たちであり、だけども、だからこそ、他人の不器用さを抱きしめるように愛することもできると信じている。

 

「考えすぎだよ、難しいことじゃないくて、シンプルなことなんだ。」

って、言われなくても分かるしとっくに知っている。知っていてできないこともある。

ほっほーう、なるほどね、知らなかったよ!

これからは、考えないようにしてみるね!!

 

なんてなると思うか?

なるはずねー。

あれこれ考えて頭の中で出来上がった設計図が「それ」なんだから。

 

その設計図、違うよっていうなら、こうだよってシンプルな設計図をちゃんと確認しないと納得できない。

至るプロセスを、構成しているエレメントを見て、見落としている大切な何かはないか、納得したい。

見なきゃできない。

 

だって「考えすぎだよ」なんて浅はかなこと言う人の設計図だよ?

自分のよりも綿密だとは思えなくない?

そもそも、その考えるプロセスってのも大事な訳だよ。

ここに答えがありますけど?

ってそういうことじゃない。

答えを決めるのは各々の心であり、価値観なのだ。

 

そうやって、どっかで腹落ちするまでは考えてしまう。

しないときも多いから、そう言う時は諦めるけれど、諦められるまでは考えてしまう。

 

考えすぎだよって言葉は、極論、死なないのに何で悩んでるの?いいじゃんって言う感じ。

いやいや、投げっぱなしすぎるでしょう。

全部が全部、そう言う問題じゃないでしょう。

死なないためだけに生きてるわけじゃないでしょう。

誰かを愛したり愛されたりして生きたいって、普通のことでしょう。

突き詰めてみればごくプリミティブな感情であって。

 

でもまあ、「命までは取られるわけでなし」という言葉に救われたことがある。

そして私も「それは考えすぎだよ」と誰かに言ったこともある。

矛盾してるなあ。

 

そもそもこの矛盾というのはこうやってインターネッツの片隅で感情を吐露している不毛な人間であることを、

良しとしている訳じゃないけどそれが自分でもあって、開き直ってる訳でもない葛藤はあるそういうものであって。

そんなの他人に指摘されたくもないから、私も笑う。

 

どうしようもないことって分かってるのに考えちゃうよね。分かるよって。

それがあなたよねって。

そういうあなたが愛おしいんだよって。

苦笑いしながら言ってくれたあの人は、心の中のいつもの席にもういないのだけども。

妙にすとんと心に落ちて、なんだかホッとして、救われた感覚に瞑目したあの時に戻れるわけではないし、

それを憂いているだけではないのだけども、それでもこんな日はあなたがいてくれたらと願う。

こういう時、胸が締め付けられる私の痛みはいつまで続くのだろう。

 

今日も私は空を見上げる。平成最後の夏も終わる。

今年は突き抜けて暑くて、考える気にもならないところが悪くなかったけども。

いい加減な自分を、そろそろなんとか考えなくてはいけない。

空は繋がっているのだといつも思うことについて書いてみる

あーもう、うまくいかん。


慣れない匂いの、慣れない部屋の中、ちっとも眠れぬまま声を殺して泣いては泣き止んで、又涙が出てきて、途方に暮れた目で窓から見上げた空の飛行機雲。

なんででもどうしてだってなんで。

繰り返し聞いたあの曲。

 

そんな当時のことを思い出しながら見上げた空。

あの頃の私はそれなりの痛みを知っていながらも、これほどまでにねじれていく感情を知らなかった。

実は話は終わっていなくて、あのときよりも更にこじれてもつれて何度も途方に暮れて。

何年も拮抗した感情に振り回された結果、私は強くなったしその分大胆にも臆病にもなったのだなあと今となってはしみじみ思う。

 

空を何度も、痛みと甘さを伴って飛んだ数年のことを、数ヶ月かけてなんとかねじ伏せても、結局変われたのかどうかは当の本人にも分かってないのが事実であって。

多分、どこかで思考停止していないと受け流せなかったものを、少しずつ咀嚼している日々。

あくまで理念とか信念とかそういったものは、どれだけグルグル巻きに守っても、あっさりと破られたりもするのだろうし、それを自分ができなくても、誰かには容易くできたりもするのだろう。

 

正解は分からないけれど、私はまた自分と対峙する。

散々傷つけたあなたと、傷ついた自分とが、代わる代わるによぎってはまたたち消える。

 

欲しいと思っている出口も、答えも、多分どこにもないのだ。

うっすらと分かっていたことを圧倒的なまでに知らしめられる現実について、寝不足の頭で何やらうつらうつらと考えていたら、そのうち眠っていた。

物理的には必須ではないもの、明確な目的や情動の類のものに、あれほどまでにこだわっていたことを愚かだとは思っても、間違ってはいなかったと今も信じたい。

どうしていつもその余波を予測できないんだろうなあ。
ぴょんと飛び越えてきたあの人のあの時の姿を思い出して、同時に失った何かであることを自覚する。

私は、いい加減で誠実ではないけれど、それをよしとはしないし、自己肯定もしない。

自ら進んで行ったことではないとか、そういう言い訳もしない。

私は見えない何かや誰かをも傷つけているのだろうし、裏切っているのだろうから、弁解もしない。

失う代わりに何か新しいものを築けるのかなんて期待を、身勝手に押しつけもしない。

そして、だから許されるとは少しも思っていないし、そんな風に逃げないし、簡単には謝らない。

乱れる感情も呼吸も、ありのままに見据えていく。

 

空はあの日と変わらず、あの人と私の上にあるし、私もあの日の延長にいる。
それは誰にも奪われない。

誰かと生きるって車に一緒に乗るようなものなのかなと思うことを書いてみる

これはよく言われることだが、車の運転にはそのドライバーの性格がよくあらわれると、確かに思う。

 

私は公私問わず男性の助手席が多いわけですが

(同行者が女性の場合は大抵が運転手になるので)

なるほど、慎重だったりせっかちだったり。

あとは、正確性や優しさや強引さ。

ブレーキの早さとか、カーブの曲がり方とか

MT車なら低速ギアをどこまでひっぱるかとか。

 

別に一発で駐車できるのがいいとか、そういうのは意識にないけれど。

なんだかんだと結果的に

ドラテク。フゥーッ↑

と、感じる男性はいる。

 

そういう人はえっちも上手い気がする。

あと、クラッチやらをガンガン踏む人はえっちも乱暴な気がする。

 

車も女性も所詮暴れ馬みたいなものだから、まぁどう乗りこなすかという点で共通なのでしょうか

車コロコロ変える人って彼女もって聞いたことあるような、ないような。

 

主導権がドライバーにあるようでいて、案外と乗せられてるというか、乗ってる時は車のポテンシャル頼みだったり。

でもそのポテンシャルをどう活かすかとかはドライバーの腕や意識次第で。

車を独りよがりにただの乗り物と見るか、車と過ごす時間を楽しむものと見るか。

 

そういう空気やムードの作り方も似たような部分がある。

おや、似てるなやっぱり。

 

そして、運転もせっくすも、メリハリが大事だと思う。

メリハリ。キビキビしたり、ゆったりしたり。

余裕があったりなかったり。

メリメリだけや、ハリハリだけじゃすぐお腹いっぱいになってしまうか飽きてしまう。

 

と、そんなことひっくるめても、私はあの人の助手席がすきだった。

あの人はそういうメリハリにとても長けていて、私はそれにいつも惚れ惚れしていた。

 

車の中、お互いに前を向いているからか、私たちはとにかくよく話をした気がする。

 

大事な話もそうでもない話も、思い出せば車の中ではたくさんの言葉を交わした。

ちらっちらっと盗み見るあの人の横顔、その視線に気づいて口角を上げる表情になんだか胸がキュンとして、ニヤけながら胸に抱いたカバンをぎゅっとして、正面に視線を戻す。

そして鼻歌に合わせて左右に揺れながら思う。

 

このままずっと道が続けばいいのに。

 

多分あの人も、そう思ってくれていたのではなかろうか。

 

焦燥。

もう帰らなくちゃ。

 

運転中のよそ行き顔に、少し距離を感じてまた視線を向けると、あの人は真顔のまま左手を私の右手に重ねる。

 

って、MT車なのに大丈夫?

いや、器用な人は上手いことなんとかするもので。

シフトを変える時だけ手を離して、また私の手のひらに戻ってくる。

おかえり、と私はその度につぶやく。

 

クラッチを踏んでギアを変えるその感じが、丁寧でとてもすき。

空気の動きや一連の仕草も、まるで歯ブラシに歯磨き粉でもつけるかのように慣れていて自然。

見せつけるような押し付けがましさなくて、手際が良くて小気味よくて、純粋にすごいなあと思う。

 

でも、ぬくもりが一瞬離れる寂しさはある。

そうか、AT車だったら、ずっと繋いでいられたんだなあ。

 

しばらくすると、私の手をそっとシフトに添えて、手のひらに包んだそのまま、軽く押してギアを変える。

なるほど、これなら手は離れない。

 

私の感情の揺れに気づいたのだろうか。

あるいは。

 

うむ、と満足げに頷きつつも、どこか照れている私に、あの人は少し眉をあげる。

 

そんな時間のことを思い返すと、今も私はニヤニヤと切なくなる。

 

稀に、私が運転をし、あの人を助手席に乗せることもあった。

走り慣れない道。私は手を繋ぐ余裕どころか、運転自体余裕なんてなくて、いつも前傾姿勢になっている様子に、目を細めながら、あの人は楽しげにしている。

きっとあの人はあの人なりの何かを感じていたのかな。

 

あーだこーだと運転に口を出すことなく(助手席で文句を言うのはご法度ですぞ)

さりげなくアシストしてくれるところも良かった。

 

あの人は本当に優しい人だった。

私の良くないところに対して、諭すことがとても上手だし、褒めて伸ばしてくれる人だった。

だから私はいつものびのびとしていられたんだなあ、と今だから分かる。

 

一つの乗り物に二人で乗っている、あの小さい空間は、心地よい液体に満たされているようだった。

どこ行こっかもなに食べよっかもなにも決まらなくても、それでもただ幸せだった。

結局全部あの人がなんとかしてくれる。私はいつもそれに甘えていた。

のを、情けなくも思う。

 

たまに「分かってよ!」とお互いで言い争うような時も、私の話をきちんと聞いて、考えてくれていた。その上で自分の気持ちを、思慮深く話してくれた。

それが結局迎合できたかどうかは別として。

 

ああやって一緒に時間を過ごしていく、その延長がつまり、多分誰かと生きることそのものだと思う。

 

私たちはそういう意味では、同じ車に乗ることができていたのでしょうか。

そこにあるものは幸せと相反する絶望だったのかな。

アンビバレンスというか、どちらかといえば諸刃の剣。

あなたは私の強みの源であり、最大の弱みでもあった。

 

バイクに乗りながら、私はそんなことを考えている。

バイクは本当に素敵な乗り物で、1人でも孤独感はない。

ギアを蹴り上げて、速度が安定したところでクラッチから手を離し、BGMに合わせて相棒のタンクを指で弾く。

湿気を含んだ夏の匂い。

 

あの時私たちは降って湧いたような何かにすがるのではなくて、手繰り寄せ続けていた。

手放してしまったら、もう掴めないことを知っていた。

らしくもなく不慣れなことに試行錯誤をして、とにかく頑張っていた。

その力が拮抗して前にも後ろにも勧めなかったり、結局どこにもいけなかったりするのだけど。

どっちかがもっと強引か、あるいはこんなに力まなければ、違ったのだと思うけども。

 

せめて、その部分だけは誇ってもいいのではないでしょうか。

結果とかだけじゃなくて。

 

誰かを愛したり、何かを紡ぐことになったとしても、あなたや、あなたの空気がほんとに大好きで、居心地が良かった。

これからも私たちは生きていく。

 

同じ車には乗れなかったとしても、あなたがくれたあの左手は本物だったと今も思う。

セックスレスで風俗に行くことになりそうな経緯を書いてみる

とあるレストランに私たちはいた。

 

そこそこの高級店であるため、席と席の間隔はかなりゆったりとしており、

お隣の席の会話はまったく聞こえない。

周りでは結婚記念日やお誕生日をお祝いするデザートプレートや

サプライズグリーティングが催されている。

はじける笑顔、溢れる多幸感。

 

私は場違い感を覚えつつ、壁際のソファに座り、炭酸水をなめていた。

そしてせめて何か会話をしようと思い、向かいの相方に「どうなさいますか、これから。」と声をかけた。

 

前菜を食べ終わり、ぼんやりしているこの人は、ファ!?と顔をあげ首を傾げた。

パチパチっと、まばたき。

「え?これからっていうのは?」

「これからは、まあ、これからですよ。」

私はじっと見つめたまま突き放した。

 

正直、話題はなんでもいいのだ。

食事が終わったらどこにいくか、何線で帰るか、でもいい。

デザートの飲み物はコーヒーか紅茶か、アルコールにするか、でもいい。

生活についてのあれこれにいたっては、先送りにしたりペンディングにしている案件は些細なことから深刻なことまでいくらでもある。

この人が今ひらめいた内容について、議論しようと思っていた。

一番最初に浮かんだものの深刻度が一番高いのかなと感じたからだ。

それくらい、本当にたくさん話し合わなければならないことがある。

そしてこの人はいつも、私に考えることを押し付けて来る。話にならない。

だから、ちょっとは自主性を持って考えて欲しいのだ。

 

レスのこと?」

 

この人が真顔で投げてきたトンデモ砲に、今度は私が内心ファ!?と不意をつかれたものの。

どんな話題が来ようがそうしようと決めていた通り、顔には出さず努めて冷静に、コクリと頷いた。

 

この話題はもう100回くらい話してきただろうか。

話をしてどうにかなるような問題でもない。

でも、これはある程度の通過儀礼なのだろう、と思う。

101回目のセックスレス談義。

もうすぐ絶賛満ウン年。

子供の年齢で言うならそろそろランドセルを買う頃でしょうか。

 

私は内心の予想外の球に対する焦りを落ち着かせながら、いくつかの提案をした。

例えば離婚、外部補完、関係修復に向けたサムシング。

ただし最後のものは可能性はほぼゼロ。


結論は出ないであろうことも分かっていた。

 

もう何度言ったかわからない言葉のやり取り。

感情の上のあたりをふわふわと行ったり来たり。

建設的じゃないな、と思いながらも、デジャブを感じる応報を重ねていた。

 

ただし、今日のこの人は一味違っていた。

そりゃそうだ。

そもそもいきなりトンデモ砲である。

何か感づかれたか。後ろ暗さに少し警戒心がもたげる。

 

「最近のヨメ(仮)は、一緒にご飯を食べていてもどこか深刻な顔をしている。」

私よりも深刻な顔で、この人がつぶやく。

そうか、と私は伏せ目がちに続きを促す。

何か感づかれたかな。探られて痛い腹しかない私は、神妙な表情をして次の言葉を待った。

 

沈黙。

 

「まあ、女の人は30後半くらいから性欲がすごくなるっていうしね。」

 

沈黙。

 

「俺、性欲ないからさ……………。」

 

全私が、震えた。

 

…あーーーーー……………

…………そういうとこだろっつの!!!!!!

 

静かにグラスを手に取り、また炭酸水をひとなめ。

大きな嘆息で感情の渦を受け流す。

小さく発泡している水の様子を眺めて、頭の中で10数える。


私のせいか?


そもそものレスの原因も、言いようによっては私が貪欲だった、と捉えられなくもない。確かに。

 

「キミは……………ぶっちゃけ、どれくらいやっているのかね。その。」

 

落ち着きを取り戻した後、淡々とした口調で反撃のように配偶者のオナニーの頻度を聞く。

ないっていうなら、まぁ聞いてやろーじゃないかい。

おう?コラ。iPadでえっくすびでおずばっか見てんのしってんだかんな。DMM?まぁどっちでもいいけど。

 

……へ?」

…………だから、週に何回とか……。」

「最近は全然やってない。」

「頻度だよ。」

「あー………月に1回?」

「は?それもう腐ってない?(鮮度的なもの)」

「いやいや、2回かな、多くて3~4回。週1はない。」

 

俺、性欲ないからさ……………

 

全私が、震えた。

 

私がとにかく盛っていてやりたがってるみたいなこの図式はなんだ。

 

まあいい。

そういうテイのが分かりやすいなら、それでいい。

細かなニュアンスが伝わるとも思えないし、これはすべて、これだけの時間をかけて積み上げてきたカルマなんだから。

 

「俺がガンバリマ……」と言いかけたところで被せ気味に「ムリ無理むり」と切り捨てる。

その話はもう101回してきているだろうが。

また私に僕チンへのご奉仕をした上で、自分の受け入れ準備も自主的になにもかもやって頑張れと?

 

「私のワガママボディは、使い道のない不良債権デスネ。」

 

腐ってんのはお互い様、と鼻で笑って話を切り上げた。

……つもりだった。

 

ところが終わっていなかった。

 

……そしたらアレしかないのか、と。俺も腹をくくる時が……。」

フーウ。何か出てきたな。妙なドヤ顔。この顔の時はロクなこと言わない。

……アレとは?」

警戒しながらも、心を強く持ちながら聞き返した。

 

「そりゃあ、ふうぞ……。」

最後のく、は口の形だけで、声として発せられることはなかった。

 

……風俗。

 

私も同じように声に出さず唇だけで形どってから、食べていたデザートのスプーンをひとなめした。

 

ブッ。と、吹き出す相方。

その仕草とタイミングが妙にツボに入ったらしい。

 

……ただし、俺が調べるから。プロだけな!」

なんだか使命感に燃えている様子に、思わず頷いていた。

確かに最近、野郎友達と女性向け風俗の話をしていたのを、この人は聞いてはいた。

外部補完って、そっち????

トンデモはどこまでいくのだろう。


いやいや、問題はレスに至る経緯であってだな。

私のリビドーが処理されればどうなったわけじゃ…


圧倒的虚無感。あかん、フロマージュの味がしない。

お隣では素敵な夫婦がアハハウフフしながら写真を撮り合っている。
その向かい側ではカップルが結婚式の打ち合わせをしている。
私たちは先ほどからセックス(レス)の話ばかりしている。
軽いめまい。


まぁ多少の譲歩と見るべきか。

それとも。


帰るか、と近くの店員さんに声をかける。

いつも空振りする私の思い。

私の中の女は、行き場がない。割り切るしかない。

 だから話したくなかったんだ、こんなの。思い知るだけだ。

ご都合主義を。


帰宅してから、スマホを睨んでいる相方を前に改めて。

「え?ワタクシホントに風俗行くの???」


行きたいのか、行きたくないのか、自分でも複雑な気持ちである。
乗り気じゃない感じを出したくもないけど、強いてノリノリでもないのだが。
いやだからさ、もてあましてんのは盛りついたBBAのリビドーではないくて……

「人生は一度きりだから。な?」


達観した様子のこの人は、遠い目をして私を諭す。


「俺としては、最愛のヨメ子だし。うん。」

 

え、えーと。


とりあえず。

まず安全そうなところで、清潔そうであんまりイケメンじゃないところのリサーチをオーダーしておいた。

メガネの年上がよいと添えて。ニヤニヤしながら。


女性向けって店舗型はあまりないそうで、ホテルとかなんだそうだ。

ふむ。
とりあえず口コミとか読めばいいのかな。


って、あーちがうんだソウイウコトシタインジャナインダヨー。

唯一無二のパートナーであるなら、向かい合ってくれよもっとちゃんと愛してくれよ努力してくれよってって部分で。

できないっつーなら行き場のない私の虚無はどこにいけばいいのかと。

他の人好きになっちゃっても知らないぞっていう。

101回ゆっても伝わらないものもある。


まあいいか。 割り切れば割と楽になる。


俺に男としての魅力がないから悪いんだよな…とか。

テクがどーのこーのとか。

いやいやいやいや、そもそもそれ、あったのかね。元々。

そんなんゆうたら悪いのは、あんたの僕チンが自主的にエレクトしない私のせくしー不足ってことになるじゃねーか。


ぽつんと相方が

「え?俺、ひょっとして一生ヨメさんとそういうことできないの?」と呟いた。

は???なんだと思ってたの?


「まぁいつかはなくなるものでしょ。遅かれ早かれ。あなたもふーぞくいきますか?」

私はニヤっとして呟いた。顔は見ないようにした。


どこかこの人は、まだ頑張れば俺もいけると思ってるんだよな。

そんなのを実行するには、結局は私が諦めて折れるしかないことに気づいてない。

なんならヨメ子が拒否ってっから仕方ないわーって。

俺はやりたいんだよ?みたいになってる。

どれだけうやむやにしてくれば気がすむのだ。


多分どっちかだけのせいじゃない。

私のせいなのもわかってる。

っていうかむしろ、当事者に不満をぶつけられるだけ恵まれているとも言えるのだ。

きっと世の中には言えずにさらに苦しんでいる人もいるだろう。

結局私はキミのせいにしてばかりだな。

どうにもできないことなのに。


よーし!いこーぜふうぞく。いっちゃおうぜ。

頭空っぽにして楽しむよ。オウイエ。


……ところでこのお金って家計費から出していいのか。

衛生費??と、そればかりが気になっている私。いや、お金大事だよ。

お小遣いからなら、話は別だ。

高度経済成長やバブルを知らないけど知っている過渡期について書いてみる

Appleとの付き合いはそこそこ長くなってきた。

私の人生の半分以上はApple商品がいる。

 

それまでの私の愛機は父の部屋のデスクトップで、確かPC98。

MS-DOSから強引にWindowsを乗せて乗せて乗せて。

Windows98が悲鳴を上げるように動いていた。

そもそもスカジーでしたよ。スカジーって。

USBっていうのに憧れてましたとも。今やタイプCとか。

 

11時過ぎから夜な夜なICQの「カコー」が響き渡る中

激打で磨き上げたブラインドタッチを煌めかせ、キリ番ゲットだの、BBSだの、

花束片手にメールをを持ってやってきたペットをあの手この手でもてなすだの、

ReadMe!JAPANの更新や2ちゃんねるを斜め読みし、

コソコソ孤独に盛り上がっていた。

今日は何やっても繋がらないとか、重くて安定しないとか。

プロバイダーも色々だったなあ…

 

そんな中、初めて買ったのはクラムシェル型iBookSEG3。

今から18年くらい前の話だ。甘食AirMac)も導入した。

そういえば当時、FireWireなる規格もあった。速度速いアレ。

IEEE1394。どこいったあれ。完全に見かけないな。Thunderboltもアレだけど。

 

そして、それまでピーヒョロロロロローだった我が家のネット環境が激変した。

なんと、自分の部屋で、ベッドの中で、ネットができてしまうわけだ!!

これが良かったのか悪かったのか…。

 

その後、iBook白のやつ、PowerBookG4、PowerMacG4・G5

iMacIntel)、Mac Pro、そして現在のMacBook Pro

公私問わず様々な子を相棒にしてきたけれど、クラムシェルは特に印象深い。

今考えればあんなムチャなあの手この手の使い方しても

よくG3のスペックで耐えてくれていたと思う。

あんなにワクワクする「おもちゃ」には、なかなか出会えそうもない。

 

私たちはロストジェネレーションだし、高度経済成長やバブルを

身をもってしらないのだけれども、ファミリーコンピューターディスクシステム

ゲームボーイでプレステとセガサターンどっち派だよドラクエ発売日ヤベーよっていう

そうやってみんなで共有出来る過渡期が、確かにあったことを思い出す。

使徒、襲来。

 

携帯もこの間様々な展開をするわけですが、それはまた別のお話。

 

私もデバイスも、できることがずっと増えて、便利で自由になった。

けれどあの頃の方がきっと、勢いもアイディアもやる気も可能性もずっとあった。

今の使い方でMacBook Proにパワー不足を感じないのは、マシンスペックや

ソフトの問題ではなく、私がそれほどどでかいものをしてないからで、

それはそれでつまらないことだ。

 

つまらない大人にだけはなりたくないと、あの頃の私は思っていた。

今の私は何も成しえてないのかしらね。ねえ、あなたはどう思うの。

職場でパワハラに悩み、退職を決めた心境を書いてみる

もうすぐ仕事を辞める。

本当にお疲れ自分。

 

と言っても、私はWワークをしているので無職になるわけではない。

でも、メインにやっている方を辞めるので、やはりなんだか感慨深い。

 

入って一ヶ月で辞めたいと考え、入って半年で辞めますと言い、

それからは2~3ヶ月ごとに辞めますと言っていた。

もはや辞めます詐欺。

もーあいつとは絶対別れる、と言い続けたダメ彼女のよう。

でも、一番最初に辞めますと言った時から、ロッカーは空っぽである。

私物はノートと手帳などの少しの文具、歯ブラシのみが引き出しに入っているのみの1年間。

 

あの手この手で引き止めてもらったのはありがたいが、やはり一度心が折れてしまっては難しい。

引き止めてもらって自分の存在価値を確かめるなんて、そんなつもりもない。

ただ、無責任に仕事を投げ出すことができなかっただけ。

期待に応えたいと考えていただけだ。

 

退職の主な原因はパワハラである。

仕事なんて面白いかどうかよりも役立てるかどうかだと割り切っているし

お給料は生活に困らないならなんでもいい。

多少通勤が遠いこともルーチンになればなんとかなる。

ただパワハラはーあかん!

相手が客なら何を言われても平気だし、心を閉じることができるけれど。

味方であるはずの人にずっと否定され続け、顔色を伺いビクビクしながら働き、

少しずつ毎日、帰りの電車で心の中身を捨てて帰っている感覚。

 

入って一ヶ月で言われたこと。

何も指示をされていないことをやってないと理不尽に私だけ責められた時

(他の人もむろんやってなかったが、それはいいらしい)

「そんなに気が利かないんじゃ、他のところ行ったってやってけないよ!?」

他のとこってどこだよ。退職勧奨かよ。

 

相手は私を同じ人だとは思っていない。

きっと得体の知れない何かだと思っているから、攻撃をせずにはいられない。

ただ気分のままに罵倒して、排除して、心の均衡を保っているのだ。

 

今までも何人もやられてきたのは知っている。

私が入ったこの期間、目の前でも去っていた人は3人。

自分を責める気持ちと、それに争う気持ちと。

些細なミスを些細と思えず何もできなくなる。

手を出すと余計なことしないでと怒られる。

何もしないと気が利かないとまた怒られる。

影でコソコソと何かを言われ続ける。

 

バカじゃないの、無能、仕事できない、常識がない、

気が利かない、頭おかしい、あなたはダメ

しまいには同僚によると、私にパワハラを受けている、弁護士に相談すると言い出したらしい。
やべー。むしろまじやってくれ。誰も証言しねーから。
(私の方は、証言するって言ってくれている人が最低5人はいる)

 

周りの同僚や上司は同情的であった。

明日は我が身と分かっていたので、私がターゲットであることに安堵していたのだろう。

 

あの人は誰にだってやるから(あなたが悪いんじゃない)

あの人はそういう人だから(悪気がないから気にしない方がいい)

あなたが仕事ができるからひがんでいるだけ(あの悪口は誰も信じてないから安心して)

 

そういう言葉を何度も聞いてきた。

 

分かる。きっと私はそんなに悪くない。

はいはい、また言ってるって流せばいい。

しかしだからってなんでそれを甘受しなくてはならないのだ。

なんで私が人格否定までされ続けなくてはいけないのだ。

 

一度向こうのミスを私がかぶった時、大騒ぎし私を攻撃している相手を見て目が覚めた。

 

私はもう一つの仕事があったし、まだ次の進路を選べる年齢やスキルがあったため

すぐに逃げようと思えたが、それでも1年かかった。

 

上司は

パワハラを立証するのは大変なことだ」

「両方の言い分を聞く必要がある。」

「余計に悪化して攻撃が増す可能性もある。」

そして

「話を聞くだけで気がすむという人もいる。」

 

クソが。(おっと失礼)

 

そんなじゃ誰の心も軽くならないし救えない。気なんか済んでるはずない。

きっとそう言った先人は、少しだけ心が壊れる期間を延命しただけだ。

真意は「ああ、結局変わらないんだな、自分がなんとかするしかないんだな」と絶望しただけだろう。

 

人はそんなに簡単に変われないし、自分の考えるように心を動かすことはできない。

加害者のあの人だって、本来は劣等感の塊で、承認されたくて褒められたくて傷ついている

弱い人間なのだろうは思う。多分上司がヒアリングした方がいいのは向こうだとも。

 

レジリエンスだとかの何かがあっても、すでに弱った心では戦えない。

仕事に対する思い入れや頑張り、やる気や立場や役割、そのもろもろがぐちゃぐちゃになって

もう何が何だか分からなくなる。思考停止した状態で耳に入ってくる罵倒や陰口。

 

初めの頃は理不尽さを冷静に受け止め、いつ何を言われたかをメモしていた。

きりがなくなり途中で辞めてしまった。

残念ながら私はそこまで無能でもなく、気づけば部署で一番の量の仕事をこなすようになっていた。

 

何がこんなにやるせなくて辛いのか。

毎日延々とゲームをして思う。

 

それは、平和に心穏やかに仕事ができなかったことだけではなくて

傷ついてしまっている自分の心に気づけないほど余裕がないということ。

 

これは、多分時間をかけてゆっくりと癒していくしかないのだろう。

心を殺して感じないようにすればいいのかもしれないけれど、それもまた、心が痛むのだ。

退職願を出した今でも、全然せいせいなんてしてない。

ただ少なくとも、私は前向きな撤退をするために仕事しながらアホみたいに勉強し、次の進路を切り開いた。

 

未来の私がまたこうやって苦しい思いをすることがあるならば言いたい。

とにかく心を守って欲しい。

結局自分の心を守れるのは、自分だけだから。

温かいものを食べて、静かな場所で暖かくしてよく眠ることが大切。

眠れない時は無理をせずメンタルクリニックに行くこと。

そして誰かと一緒に過ごすことで、心を軽くすることはよいけれど

弱っている時は特に、他人にそのまま心を預けてはいけない。

他人は自分の理想通りになんて、心を庇ったり守ったりしてくれない。

それにまた絶望したり、余計に傷ついたりしてしまうから。

 

引き止めてくれている上司や、置いていく同僚のことを思うと辛い。

とにかくあと少しだけ、少しでも役に立とう。

それは自分のため。自分が少しでも後悔しないため。

私は前を向いていく。

自分がたったひとりの価値のある人間だと認められる権利は、全員に与えられている。
剥奪されている権利は、自分しか取り戻せない。
私が一緒に殴ってやんよ。

仮想通貨とこころの時代について書いてみる。


私のお給料は、その大半は数字の形で目の前を通過していく。
振込まれたことを告げる数字を見て、それがカード請求で引き落とされて目減りして
またお給料日になると残高が増えて、また目減りして。
正直どっかでごまかされてても全然分からない自信がある。
そもそも携帯代、なんでいつもあんな高いのか、未だにわからない。

どうやら私には年間数百万の収入があるようなのだが、私が実際に触る一万円札の数は年間でもせいぜい数十枚程度だと思う。
2万円以上の買い物はだいたいカードで決済しているし、手持ちが不安な時やセミセルフレジなる自分でお金を入れるシステムのスーパーのレジや、ガソリンスタンドは操作が煩わしいのでカードを使っている。

しかし、だいぶ進んだとはいえ、日本は現金がないと少し不安だ。
ちょっとした買い物や食事だと、カードで決済できないお店も多い。自動販売機ですら、スイカとか使えるのになあ。
ここまでは電子マネーの話。

コーヒーが出てくる合間、向かいに座った相方が、歌うたいのあの人が仮想通貨の会社を立てたのだそうだ、と自分の真新しいiPhoneを差し出してきた。
時代は仮想通貨だ。ホリエモンひろゆきも言っている。乗り遅れるなとかなんとか言ってるお向かいを聞き流しながら
「あいふぉーんえいとは画面が小っちゃいな」とかどうでもいいことを考えていた。

仮想通貨って概念が出てきてだいぶ経つ。
ビットコインだとか。一緒にしたら不適切だと思うけれど円天だとか。あ、これは疑似通貨?よくわからん。
お馴染みの電子マネーとはちょっと違う。
円をそのまま使わない点が外貨っぽいなーとか。
と、そんな程度しか分かってないけど。

大昔、大学の講義で「価格を決めているのは誰か」という話を聞いたことを思い出す。
お店の人ではなく、消費者なのだそうだ。消費者がその金額で購入して初めて、価格が決まるとのこと。

株を少しだけやっていたことがある。
本当にちょっとだけ小金を儲けた。
そのお金は当時付き合ってた男へ、右から左へ消えた。
その使い方を今も全く後悔していない。が、株はやめた。

後悔しないってことは、納得して払ったものなのだ。それにその価値があると思ったのだ、それが周りにどれだけあほかと言われても。
私は応援したかった。
今私が使わないお金で、大事な人が可能性を掴み頑張れるならと思ったから出しただけだ。

今モヤモヤしていることといえば、大して欲しくもないけどなんとなくポチッたヤフオクの商品が
定形外なのに送料500円もふっかけられたことくらいである。ゼロが3つは違う話。

うちの姉は若い頃ものすごい借金を作った。敷布団やら宝石やらも買ったようだ。
でも後悔している様子はない。ゼロが4つは違う話。

私の世代はロスジェネと言われるやつである。
必ず最後に愛は勝つ、負けないで投げ出さないで逃げ出さないで信じぬく事が大事だと歌から学び、世紀末の不安定を肌で感じながら、世にも奇妙な物語やあなたの知らない世界やギボアイコに浸かり、盗んだバイクで走りだしたり校舎のガラス壊して回ったりする自由すぎる上の世代の分も粛清を受けつつ、Jリーグやらスラムダンクやらのスポーツブームに乗っかり、努力友情勝利を漫画やアニメから学んで育ってきた。
たまごっちやポケベルでデジタルに感情移入したり、誰かと仮想世界で繋がる高揚感を知った。

大学を出れば安泰と言われて必死に勉強したところで、バブルの恩恵も受けられず理不尽な不景気にさらされて、圧迫面接やお祈り手紙に挫けず、何十社も受けて滑り込んだ会社でリストラ対象にならないようにがむしゃらに働いて、若さも遊ぶ時間も望まれるままゴリゴリ削ってきた。
クライアントに気分で白を黒だと言われれば、「おっしゃる通り」と頷いて思考停止に努めて徹夜でデータを作り直した。
コミュ力だけで出世しているクソみたいな仕事できない上司の分も業務を被ったって。
なんだか妙に力もないのに偉そうな後輩の講釈を苦笑いで聞き流しつつ、尻拭いをしてたって。
どれほど自分の手柄が認められなくても、使い捨てだと分かっていても。

報われない日々に、出口のない閉塞感に、何度も何度も「話が違う」と放り出したくなりながら、「現実は厳しい」と思い知らされながら
やっぱり何か、努力友情勝利的な、そういったものを信じたい気持ちを、諦めるように少しずつ捨ててきた。
それが大人になるということだと言い聞かせてきた。
気づけば信じられるものは少なくなっていた。

MP3も、電子書籍も、便利だよね、と利用はしている。
だけど、なんだか信用できない。

データでしょ?
つきつめれば0と1だと、知っている。

あんなに時間をかけて積み上げたセーブデータも、ある日あっさり「New Game」になるスーファミの内蔵電池由来の儚さで現実を知る。
その悲しみとやるせなさをどれだけ親に説いたって「たかがゲーム」で同情すらされない。
(きっと今の親は違うだろう。だって親世代となった私たちはその苦しみを知っているのだから)
過渡期のデバイスは今のように安定していなかったから、携帯電話やデジカメやパソコンのデータが吹っ飛んだとかフリーズして再起動しか道はなく、データを作り直したりなんて、誰もが経験している。

数字だけの給料日まで、指折り数えるその日暮らしをしていたって、少ない給料からアホみたいに自動的に控除される自分のお小遣いと同額の年金を、自分の世代は確実に払った分貰えるはずがないことも知っている。
このお金があれば、習い事だって、ちょっといいお店のディナーだって、あのコートだって買える。
そのお金を受け取っているお年寄からは「だらしない」「もっと頑張れ」と高度経済成長期と同じ土俵で上から目線に語られるだけで感謝されたことなんてない。

ああもう。
仕方ないのだ。
仕方ない。
全部それで思考停止。
怒る元気もない。
持てる夢もない。
確実に何かを捨てながら今日もスマホに答えを探す。
ないことは知っている。

心の底から、お金のためだけに働いているわけではないのだ。
ではなんだろう。

お金の価値ってなんだろう。
自分の価値ってなんだろう。

奇跡を信じたい
スピリチュアルは嫌いじゃない
運命ってあると思う

それら全て
恥ずかしいから、言わないけれど

そもそも、あの人も、この思いも
自分すら全部仮想じゃないのか。肯定してきたもの、否定してきたものすべて。
その脆弱性を担保できるものなんてない。
それも知っている。

歌うたいは歌うたっててくれよ。
歌うたいでないとできないことをしてくれよ。
「変わらずにここにいる」って、それを示してくれているだけでいいのに。

全然私の言う事なんて聞かず自由に生きてるくせに依存と自己主張だけはしてくるモフモフが
額をグイグイ私の手のひらに押し付けてくるたび、私はあの人と初めて手をつないだ時のことを思い出す。
もっとすごいこといっぱいしたけれど、結局あの雰囲気と距離感が、一番私たちらしいと思う。

儚い物だと知っていた。
だから、壊れるほど近づいたり、足りずに求め続けたりした。

私は幸い、食べるに困ってはいないし、雨風しのげる家もあるし、こんな風にモフモフもいる。
仕事や家庭の愚痴を言い合える友達も、一緒にゲームでインクを塗り合える友達も、誕生日を祝い合える友達もいる。
同じ家に住んでくれて、お金を出してくれる相方もいる。

だけど、だけどさ。
いつでも転がり落ちるのも知ってる。
貧困とか、孤独とか、その類の物に。
その真っ暗闇に落ちたら、
秋葉原でレンタカー暴走するような絶望が、そこにはあるのかもしれないんだ。
絶対分かっちゃいけないし、勇気もないけれど。

毎日結構いっぱいいっぱいで。
仮想通貨とか投資とか考える余裕ないなぁ。
マインドフルネスだとかさ、結局自分に帰属するんだなぁ。

頼んでいたコーヒーが来たので、思考をそこで留めて、無言でiPhoneを返して嘆息した。
返答を待っている視線に、「まあ、こころの時代なんだよ」と、分かったような分からないようなことを呟く。

この気持ちを誰かに分かってほしいような、それ自体が恥ずかしいような。
来年の今頃の私は、どうしているだろうね。

 
それでは、良いお年を。